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私は私でしかないのだ。
私は小さな頃から自分とは別の何かになりたかった。
幼稚園の時はウルトラマンや戦隊もののレンジャーのようなヒーロー。
小学生になると、漠然と“私は私のままではいけない”と感じるようになった。
中学生になると、自分は何なのか分からなくなった。
高校生の頃には、無意識に優等生になる事を望んでいた。
専門学生の頃は、何かを足さなきゃいけない衝動に駆られていた。
社会人になると、他者が求める私を探していていた。
結婚し、母になると、世の中の母親像を探し、みつけた型にハマろうと努力した。
そして、月日が流れてそれは限界を迎えた。
私は何者にもなれない。
私は私でしかないのだから。
本当は何者かになりたかった訳ではないのだ。
私はずっと私のままでありたかった。何かを足さずとも、このままでいていいと自分に言いたかった。
何かをしないと認められない。
この感覚はどこからくるのだろう?
家庭か、学校か、社会か、
それとも私自身からか。
“私”というものは、ハッキリと認識できない。他者や社会との関わりの中で色んなフィルターを通した“自分”を作り上げる。
それがあたかも、“私です”という顔で居座るのだ。
だから、“これが私”という正解はないと思う。
ただ、ハッキリ言えるのは、
私は何者にもなれない。という事。
私は隣の家のハナちゃんにはなれないし、
大好きな姉にもなれない。
“私は私でしかない”というのが曲がりようのない事実。
ただ、今現在の“私”が私にとって、どんな存在なのかが重要で
感覚的にこの私でいる事が
快なのか、不快なのか
でしかない。
―不快である私はどんな自分?
人に認めてもらいたいがために、自分や大切なヒト、時間を蔑ろにしている自分。
好きなものを素直に好きと言えない自分。
やりたいと湧いてきているのに、それを色んな理由でやらない選択をしている自分。
悲劇のヒロインの悦に入っている自分。
―快である私はどんな自分?
安心してワガママを言えちゃう自分。
大切なものを大切にできる自分。
ありがとうと言える自分。
美しいものが好きな自分。
ちょっと変で気持ち悪いことが愛おしいと感じる自分。
美味しい食べ物を美味しいと思える自分。
自分に頼られる自分。
私は、私が心地よい私になりたい。
不快に感じる私も自分の一部なのだから、不快をまるっと抱きしめられる大きな私になりたい。
私は私でしかない。
私は私でしかないのだから、
何者になる必要なんてない。
どんな感情も、言葉も、思考も、全て私だ。
ただ、それだけなんだ