月と陽のあいだに 175
波濤の章
演習船(1)
カナンガンのアラムの花は、月蛾国で一番最後に開花する。
それを合図にしたように、長い冬のあいだ海を覆っていた厚い氷が沖へ退き、海明けの季節がやってくる。沿岸の港からは、この日を待ちわびていた漁師たちが一斉に漁場へ向かい、街には祭りのような活気が戻ってきた。
「あの二人は出かけたのか?」
久しぶりの休日、カナンの宿舎の居間で白玲が本を読んでいると、オッサムがたずねた。
「アルシーとトーランなら、市場へ行くって出かけたわよ」
白玲が答えると、オッサムは眉間にシワを寄せた。
「買い物に行った割には、遅いじゃないか。魚が腐るぞ」
はあ?という顔でオッサムを見た白玲は、思わず吹き出した。
「オッサムったら、まるで頑固親父ね。お年頃の思い合う二人が出かけたんだから、遅くなるのは当たり前じゃない」
白玲が茶化すと、オッサムが読んでいた書類の束を投げつけた。ヤキモチは見苦しいぞと言いながら、書類を拾って渡すと、オッサムはブスくれて自分の部屋へ行ってしまった。
朝から市場巡りをしていたアルシーとトーランは、向こう数日分の野菜や果物を買うと、近頃カナンで評判になっている芝居小屋へ向かった。掛かっているのは、旅の騎士と領主の娘のかなわぬ恋の物語で、若い娘たちに人気があった。
小屋へ入ると席はずいぶん埋まっていたが、トーランは人混みをかき分けて舞台が良く見える真ん中あたりにアルシーを座らせた。
やがて客席が暗くなり芝居が始まると、若い二人の甘いセリフが畳み掛けるように続いて、見ているアルシーの方が思わず赤面してしまった。いよいよ芝居も大詰めになって、二人の仲に気づいた領主が娘を別の男に嫁がせようとすると、二人は逃げて大きな川のほとりに追い詰められる。死を覚悟した二人のやり取りに、あたりの観客からはすすり泣きの声が聞こえてきた。
「これで泣くのかしら?」
アルシーが変なところに感心しながら、ふと横を見ると、隣に座ったトーランが鼻を啜っている。びっくりして、舞台そっちのけでトーランの顔を見つめていると、視線に気づいたトーランが顔を赤くした。
「こういうのに弱いんだ」
小さな声で言い訳すると、頭をかいた。
やがて客席が明るくなると、トーランは買い物カゴを抱えて立ち上がり、空いた手でアルシーの手を握った。
「はぐれるといけないから」
そう言ったが、外に出てもその手は繋がれたままだった。
「次の視察が終わったら、私は休みをもらってユイルハイの家へ帰るんだ。殿下も戻られると聞いたけど、君はどうするんだい?」
「私も帰るわ。おじいちゃんの命日も近いし……」
アルシーが答えると、トーランはしばらく黙り込んだが、やがて思い切ったように口を開いた。
「ユイルハイに帰ったら、一日だけ時間をくれないか。君を母に紹介したいんだ」
なんで? と不思議そうに見上げるアルシーに
「君のことを手紙に書いたら、母がぜひ会いたいと言ってきた。私は一人っ子で、母は娘が欲しかったんだ。私がいうのもおかしいけれど、母は本当に優しい人だ。君と母が仲良くなってくれたら嬉しい」
そう言ったトーランの日焼けした顔が赤くなっていた。
トーランが繋いだ手に少しだけ力を入れると、アルシーは黙ったまま頷いた。