月と陽のあいだに 231
落葉の章
ハクシン(12)
ハクシンの乳母の日記がもたらした動揺が一段落したあと、白玲は再び皇帝のそば近くに仕えることとなった。宮を離れた皇后に代わって、その職務をこなしながら、皇帝の御座所に控えて、日々の細かな仕事を見覚える日々だった。
本来ならこの役割は、皇太子とその一人息子であるシュバル皇子が担うべきものだった。しかし、ハクシンに独断で毒杯を与えた皇太子は、皇帝の意に従わなかった者として信頼を失い、政の中枢に関わる道を断たれた。
皇太子の唯一の皇子であるシュバルは、白玲より五歳年長だった。生まれてまもなく実母を喪い、皇太子妃の元で育てられた。皇太子妃は、ハクシンの出生のあと流産が続き、子を産むことを諦めた。そしてシュバルを、本当の我が子のように慈しんだ。
そんな妃の思いを汲むことなく、皇太子は何人も側妃を召し上げた。やがて皇太子と妃の間には埋め難い溝が生まれた。そして表向き離縁はしなかったが、妃は夫の宮から離れた宮に居を移してしまった。シュバルは、そんな妃を守るように、母と共に宮を移った。
成人を迎えると、シュバルは『視察』と称して、国内のあちこちを旅するようになった。父皇太子から帝王学を学べと言われても、月蛾宮に縛られることを嫌った。
その姿にかつてのアイハルの面影を見たのか、皇帝はシュバルに月蛾宮での職務を強いることなく、シュバルがもたらす各地の自然や民の消息に耳を傾けた。
ハクシンの死後、皇帝はシュバルに独立した宮を与えた。
「そなたもいずれは妃を娶るのだ。これを機に皇太子府を離れ、新しい宮を持つが良い。そして母妃が皇宮に戻った後は、そなたの宮に迎えよ」
シュバルはその言葉に従って新しい宮へ移り、母妃の実家であるバンダル侯爵家の姫を伴侶に迎えた。
こうして皇太子はますます孤立し、太子府に籠る日々が続いた。遠からず廃嫡されるのではないかという噂が広がり、皇太子の生母である側妃の宮からも、人々の足は遠のいた。
一方、白玲は多忙な日々を送っていた。
皇帝の側仕えの他に、亡き夫から受け継いだ領地や事業も管理しなければならなかった。領地経営の実務は代官に任せたが、そのほかの事業は種類も数も多く、一人ではとても対処できない。困り果てた白玲は、皇帝の助言通り執務室のタミア官房長に相談した。
人選に数日欲しいと言われて待った後、推薦されたのは、兄弟子のカロンだった。
「執務室の出世頭が、個人の管財人になってもいいの?」
驚いた白玲がたずねると、カロンは笑った。
「執務室にいたからといって、必ず宰相や官房長になれるものでもないからな。それにネイサン殿下の財産は、第二の国庫のようなものだ。殿下の残された事業を管理して育てていけるなら、執務室にいるより面白いと思ってね」
それに、とカロンは続けた。
「忘れてもらっては困るが、私も殿下の弟子だったんだ。殿下がどんな思いで事業に情熱を注がれたか、お前と同じくらい知っているさ」
白玲はカロンに手を差し出した。それを握ったカロンは、承知したと頷いた。
こうして白玲は、辛い出来事から心を引き離すかのように働き始めた。忙しく過ぎる日々の中で、夫の面影はいつも心にあったが、胸を刺すような悲しみは、少しずつ薄らいでいった。