月と陽のあいだに 189
波濤の章
進水式(2)
「羨ましいように、良い家族だろう」
白玲の気持ちを見透かしたように、ネイサンが声をかけた。
「皇家では、あんなに暖かい家庭を持つことは、とても難しいのだよ」
月蛾宮で暮らしてみれば、そんなことはすぐにわかる。
「幼い頃のカナルハイ殿下は、両親の愛情を受けられずに育った。陛下はお子の養育には関わられないし、母である側妃様は兄の皇太子殿下にかまけていたからね。けれどもルリヤ妃殿下に出逢って、それを補って余りあるほどの愛情を得られた。ずっと望んでいた家庭を作ることができたのだよ。妃殿下は、アンザリ伯のもとで幸せな子ども時代を過ごされたのだろう。愛情に満ちた家庭の在り方を、よくご存知だ」
それはまるでネイサン自身に言い聞かせるような言葉だったが、白玲の胸を刺した。
親の愛情を知らないという点では、白玲もネイサンも同じだった。幼くして両親を失った二人は、幸いにも周囲の人々の愛情に支えられて育つことができた。それでも、心の奥にあいた穴は、大人になっても容易に塞ぐことはできない。家族の愛を渇望しているくせに、いざその機会が巡ってくると、自分には無理だと尻込みして手を伸ばせなくなってしまうのだ。
「私もいずれ伴侶を得て、皇家の血を引く子を産むのでしょう。でも私は、伯母上様のように、暖かい家庭を作る方法を知りません。ナルヤ様やタアヤ様のような素直で優しい子を育てられる自信がありません」
白玲が困ったような微笑みを浮かべた。
「なんとかなるさ。そなたにはそなたの幸せの形があるだろう」
ネイサンが白玲の頭をくしゃりと撫でると、もう子どもじゃありませんと、白玲は口を尖らせた。
「叔父様はたくさんの女性と交際されたのに、伯母上様のような方に出逢われなかったのですか?」
思いがけない問いに、ネイサンは一瞬固まった。そして苦い笑いを浮かべると、手を振って去っていった。
進水式は華やかだった。
小さな船ならコロを使って水に浮かべるのだが、大型船は、組み立て場の水門を開いて水を引き込み、船を浮き上がらせて完成を祝うのだ。
秋空の色の美しい衣をまとったカナルハイ妃殿下が、船尾に繋がれた飾り紐を解くと、水門が上がって水が渦を巻いて入り込み、船はゆっくりと浮かび上がった。居並ぶ人々から歓声が上がり、花や紙吹雪があちこちで舞った。
月蛾国最大の船の名は「煌娥」。航海の成功と安全を祈って、月の女神の名をいただいたのだった。深い飴色の船体は、この後艤装を施されて、試験航海に出る。
隣の組み立て場では「煌娥」の次に就航する船の建造が始まっていた。船台の上には、綺麗に磨かれた材木が、組み上げられるのを待っている。
「きっと優美な船になりますね。二隻が揃って白い帆を上げる日が楽しみです」
「そうしたらお約束通り、殿下を輝陽国へお連れしましょう」
嬉しそうに目を輝かせる白玲に、ヤズドが笑いかけた。
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