「たのしくて元気が出ることを書こう」と思ったから
「未来はあるから大丈夫」
と言ってあげたい過去のわたしがいる。
二度とそこへ行きたくはない。
「もう一度、そこを通り過ぎた後の記憶を持ってそこを歩くとしたら」
きっとできない。一度通った道だけど。その時、かろうじて通り抜けた。
もし「大丈夫」と言ってしまったらたぶん、安心して諦めてしまうんだと思う。
そんな余計な事、できなくてよかった。
だけどわたしはまだ、「生きててよかった」と心から言える瞬間にたどり着いていない。まだ。
どこか、何度もあった諦めるチャンスに、くじけてしまっておけばよかったと繰り返し思う。
そのたびに生き延びてしまう自分にがっかりしながら今がある。
がっかりしつつ、「わたしにはまだできることがあるんだ」と自分に希望を見出す。
できることはいつも手探りで、同じやりかたは二度とできない。
今日は、いままでなら怖くて近づきたくないと思っていただろうな、という相手を、好きになってみようというきもちになった。
じゅうぶん好きだと思っていたものを、今この瞬間もっと好きになってるなと気付く時もある。
それでわたしはこれまでを生きている。
いつも待ち合わせ。「どこかで」会う瞬間まで。いつも待ってる。
歩いていく。記していく。
わたしはわたしをたくましく生きている。
このたくましい身体は、誰かに切り分けてあげたいほどだと思うけれど。
できないから身体ごと、会いに行くしかない。わたしはわたしにしか抱えられない。
「わたしを抱えたわたし」を、もっとたくましく抱えてくれるひとでもいたら面白い。それだけで好きになってしまうんじゃないかと思えるけど、分からない。ただただ笑えるだけかもしれない。一緒に笑って楽しい気持ちになるだけでいいかもしれない。
「抱えてくれてありがとう、お礼にあなたを好きになります。」
そんなのはおかしいね。
誰かに体重をあずけたり、反対にのしかかられたり、抱えたり担いだり、それは案外、ただ面白かったりするんだよ。
「好き」より手前の気持ちを、掬って大事にしたい。
「ただ楽しい」の時間に、もう少しゆっくり丁寧に、ふれあっていたいんだよ。何かに育ってしまう前に。育つものに、力強い安心感があるからこそ。
優しくすることは簡単じゃない。誰かにとっての優しさとわたしの感じる優しさがきっと同じではないから。
だけど楽しいことだけ考えていようとすると、それはとても優しい気持ちである気がする。
わたしはわたしに優しくすることしかできないのかもしれない。
「わたしはわたしが生きようとすることで、他の誰も否定したくない」。
だからわたしの優しさでわたしを包んで、その姿が誰かに何かを伝える形に、なればいいと思う。
わたしにはわたしがいる。
それだけでどこまでも行けるのか分からないけれど、たぶんわたしはほとんどそれだけで生きてきたのだから。
誰かを想っても、誰かに想われても、返せるものはいつもそれだけ。示せるものはいつもそれだけ。わたしでしかないのですが、いいですか?
あいまいで、抽象的で、比喩が多くて伝わりにくいかもしれませんが、わたしは楽しいです。
わたしが楽しいことを、喜んでくれる人がいたらその時は、それだけで好きになってしまうんじゃないかと思うけれども、やっぱり分からないな、ただただ嬉しいだけかもしれません。嬉しいと「好き」って思うよね。好きって思うと楽しい。
今日のきもちはそんなところです。
よかったら、また。わたしは元気です。