言葉でひとを動かさない、言葉で自分を片付けない
「語りたくない」になってるなあ…。
エモーショナルな状態に、身をゆだねて、ただ感じていたい。
ただ、わたしには、「語るべきことを語らなければ」という思いがどうしてもあって、次第に自ら語り出すと分かっているから、その、あたたかくてやさしい痛みに頼ることが、どうしても申し訳なく思えてしまう。
自分の心の現在地が分からなくなる。ようやく自分を味方にできたなと思う瞬間があっても、また弱くなる時もある。過去の自分に気持ちが向かいすぎているだけということもあるから、気付けば、今はそれでいいんだと安心できることもある。闘っているのは今の自分じゃない、過去闘っていた自分の苦しみを、労わってやりたくなるんだろうと思う。
全部吐き出してしまおうかとも思う。だけどそれができないのは、誰も悪くないと分かっているからだ。それなのに時々、「自分だけが悪い」という状態に陥るから、優しい赦しを必要としてしまう自分を、自覚するとまた責める。それなら「誰のことも許さなくていい」。
この迷った状態を人に見せたくなくてつい閉ざしてしまう。だけど、また語り出そうと思った時に、閉じた扉を再び開けることが困難になる。だからできるだけ、わずかでもいいから隙間を残しておきたい。
本当は全部閉ざして、自分だけの心地よいところに沈んでしまいたい。
本当はさみしい。
あの日少しずつ、開いておこうとした、そうして、開いてゆこうとした自分の言葉を置いておこう。
すべてを自分一人のからだで、受け止めようとして苦しくなってしまうのはどうしてなんだろう。また鮮度の高い痛みがある。季節の歩みの中にいる。わたしはひとりじゃないよ。
わたしにはわたしがいるし、大事な仲間がいるんだよ。
言葉で分かってもらえないことを、諦めなくていい。
言葉で寄り添えないことを、つらく思わなくていい。
行動のために、言葉で伝えられることだけを言葉にする。言葉にすることだってひとつの行動だ。言葉だけで動かそうとしてもできないけれども。わたしが言葉にするとき、ちゃんと心で分かっている。実感がちゃんとなければ、言葉になってはくれないから。わたしはわたしの言葉を頼りにしている。
言葉にならないものを守りたいから、わたしはまた、もう少しだけがんばってみるよ。
今日も、見てくれたあなたは本当にありがとう。
さみしい様子ですみません。また元気になるから大丈夫だよ。