三日坊主日記 vol.277 『映像撮影における天気の重要性の話』
久しぶりの雨。朝からしとしとと雨らしい雨が降っている。
我々映像制作者にとって、雨(天気)はいろんな意味でとても重要だ。雨には雨の、晴れには晴れの、曇りには曇りの役割がある。夕焼けや朝焼けを狙う時も、星空や月夜を狙うときも、それぞれ演出効果を期待して撮影に臨む。天気は俳優やシーンの情緒を演出してくれるし、心象を表現することもできる重要な要素だから。だから、思い通りの天気になるととても嬉しいし、そうじゃないとガッカリするときもある。黒澤明監督が、イメージした形の雲の形になるまで撮影しなかったという都市伝説のような逸話があるが、事情が許せば誰もがそうしたいと思っているのだ。
その反面、晴れて欲しいのに雨が降ったり、その逆だったりすると狙い通り撮れないし、場合によっては撮影を延期したり、中止したりして余計な経費が嵩むことになる。僕も永年映像監督をしているので、天気の都合で撮影が延期になったことが何度もあるし、奇跡のような天気に助けられたことも数えきれないほどある。
また、雨を晴れにすることはできないが、雨を降らせることはできる。僕の映画『泥の子と狭い家の物語』でも雨を降らせたシーンがある。この映画では予算の都合で自分たちで力を合わせて降らせたんだけど、雨降らしのプロスタッフもいて、どんな場所ででも見事に雨を降らせてくれる。CMの現場で何度かお願いしたが、なかなか見事なものだった。
そして、撮影スタッフには必ず晴れ男と雨男がいるのもおもしろい。実際に統計を取ってみたらそんなに偏りはないのかもしれないが、雨を呼ぶ人と晴れを呼ぶ人が必ずいる。しかし、現実には雨男も晴れ男もプロデューサーや監督であることが多い。つまり、万が一雨が降ってしまった時に、その人のせいにしてもある程度笑って済ませらせる人に責任を被せるのだ。そうして、やり場のない怒りというか、フラストレーションというか、その悲しい状況をやり過ごしているのかも知れない。もし、技術スタッフや助手さんが雨男だなんて噂がたてば、それは本当に死活問題に発展しかねないんで、笑えないのだ。
僕は幸い晴れ男だし、もっというと、そうなって欲しいと思う天気になる傾向がある。いや、冗談ではなく、夕陽が撮りたい時はキレイな夕焼けになるし、ドラマチックな雲が欲しいよね、なんて話していると本当にそんな雲が出たりする。その度に僕は神様に感謝するとともに、この恵まれた天気は僕の寿命と引き換えなんじゃないだろうかと心配になったりもする。
その天気がテクノロジーの進化によってコントロールできる時代がきている。正確には天気をコントロールするのではもちろんなく、望んだ天気を室内に再現する技術だ。『ローマの休日』でオードリー・ヘップバーンとグレゴリー・ペックがベスパに乗ってローマの街中を走るシーンを一度ぐらいはご覧になったことがあると思う。あのシーンは実際に街を走っているのではなく、かといって合成でもない。2人が乗るバイクの背景にローマの街を投影しているのだ。そして髪の毛やスカーフは靡いているのは、ブロアーで風をあてているから。
当時のその手法を最新のテクノロジーに置き換える。つまり背景に景色を大きく映し出し、その前で俳優を撮影するバーチャルプロダクションという手法が実用化されている。天気はもちろん、場所や季節、時間などを自由に作ることができるのだ。映像制作者にとってはどこでもドアとタイムマシンを同時に手に入れたような夢の技術なんだけど、まだまだ改善の余地はあるだろうし、何よりえげつない予算がかかるという大きなネックもある。
それにしても、最初にそのスクリーンプロセス(ローマの休日の手法ね)を考えた人は偉い。発明である。なんでもそうだけど昔の人というか最初に編み出した人は偉い。もちろんいまも偉い人やすごい技術は多いけど、それは改良であったり進化であって一番最初ではないからね。
とはいえ、実際の自然には絶対に勝てないんだから、自然を大切にするのが一番大切。50年後、100年後に異常気象が進んで、ロケーション(屋外撮影)できない環境にしないためにもね。
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