ルシファーとミカエル
皆さん、こんにちは・こんばんは・おはようございます。「見たかな?観たよ!」の中の人、ひろ-macrobiworldです。
ご訪問いただきまして、ありがとうございます。
今回は光(善)と闇(悪)についての考察です。
これを取り上げようと思ったきっかけは、YouTubeショートで流れてきたこの絵の解説でした。
光の大天使ルシフェルが神の怒りを買い、
神に天界から追放される瞬間を描いた作品だそうです。
そのショート動画で目元部分の、どアップが写されていたのですが、これがなんとも魅力的で魅入ってしまったのです。
そこで気になって、改めてルシフェルについて調べてみたのですが、興味深い事実を知りました。
今回はそれを皆さんと共有して、考察してみたいと思います。
なお毎度のことながら長文記事となっております。一気読みが難しい方は目次機能をご利用の上、適宜分割して読んで頂けると嬉しいです。
ラテン語で明けの明星を意味した「ルシフェル」
まずWikipediaでルシファーを調べてみると、
初っ端から「Lucifer、ルキフェル、ルシフェルとも)は、明けの明星を指すラテン語であり、「光を掲げる者」という意味をもつ」と出てきます。
日本では光の大天使時代をルシフェル、
堕天使の長となってからはルシファーと使い分ける人もいる様です。この記事でも、便宜上その様に使い分けしたいと思います。
明けの明星とは即ち「金星」のことで、ギリシャ(ローマ)神話では金星の象徴は女神アフロディーテ(ヴィーナス)で、彼女は美と愛の女神とされていますから、それもあってか、このルシフェルはとてもイケメンに描かれていますね。
ただ過去の歴史上の宗教画でルシフェルがこの様なイケメンで描かれることは、まず無かったそうです。悪魔の長として如何にも…な容貌で描かれることが多かった様ですね。
とは言えWikipedia Commonsにアップされている作品群を観ると、実際は半々くらいなのかなあ…と言う印象を受けます。ミカエルとの対戦場面でミカエルの容貌と遜色なく描かれている絵画や像も多かったですから。
ただ、いわゆる「“魔性の”イケメンや美女」と言うのは、どうも近代になってからの価値観の様ですね。そう言えば「陰のある美青年」と言うキャラクターの流行は、銀幕にジェームズ・ディーン」や先頃亡くなった「アラン・ドロン」が登場した影響でしたっけ。
金星を象徴する女神
さて、その美の女神アフロディーテのルーツはシュメール神話の「イナンナ」です。
因みに時代が少し下るとメソポタミア神話になり、名前も「イシュタル」になるのですが、これがさらに時代を下ると
フェニキア神話では「アシュタルト(※)」、
ペルシャ神話では「アナーヒター」と呼ばれる様になります。
アナーヒターはインドに伝わって「サラスヴァティー」となり、これがチベット山脈を超えて仏教の経典と共に唐に伝わり「弁才天女」と呼ばれる様になりました。
唐では天女扱いでしたが、日本に入ってくると弁才天もしくは弁財天として宗像三女神の一柱である市杵嶋姫命と同一視されるようになり、また数は少ないものの、瀬織津姫命が弁財天として祀られているケースもあるそうです。
注※;アシュタルト▶︎またはアシュタロト。セム系の豊穣多産の女神。古代シリアのセム系民族のウガリット神話では女神でアナトと共にバアル神の陪神とされている。
セム系はオリジナルのユダヤ人と同族で、現在ユダヤ人の大勢を占める白人のアシュケナージ系とは違う。この女神はカナンなどでも崇められており、旧約聖書にも、主要な異教の神としてヘブライ語形 アシュトレト (עַשְׁתֹּרֶת)の名でしばしば登場する。
熱狂的に信仰されていた為、アシュタルト(イシュタル)信仰はヤハウェ信仰にとって脅威と考えられて、ユダヤ教聖職者から激しく攻撃された。
中世のヨーロッパの魔術書「グリモワール」では悪魔アスタロトとして登場。因みにウガリット神話の最高神バアル(ベルゼブブ)も同様であり、最初から悪魔だったのでは無く、ユダヤ教聖職者やキリスト者によって、“異教の神であるが故に”悪魔とされた神々である。
貶められた天使と神々
アフロディーテ以外は全て水神で、特にアシュタルトは西洋ではアスタロトとして夫のバアル(ベルゼブブ)と共に悪魔扱いで、彼女はドラゴンに乗った天使の姿で描かれることがあると言います。
元々イシュタルの乗り物がライオンで、アシュタルトも女神としてはライオンに乗った姿で描かれることも多いので、悪魔扱いされる様になった時に乗り物が、西洋では悪魔扱いされるドラゴンに様変わりしたのでしょうか。
日本ではこのアシュタロトとその一個前の前身アナーヒターは大乗仏教の観音菩薩の起源のひとつとされています。
仏画や仏像に「騎龍観音像;龍に乗った観音菩薩」が描かれているものありますから、いずれにせよ龍に乗った観音菩薩と言うのはメソポタミア〜ペルシャ辺りから伝わって来たイメージなのかも知れないですね。
アフロディーテもそうですが、西洋の金星の女神たちには美と愛と豊穣の他に「戦争」を司るとされることも多い様です。
特に明けの明星は軍神的な意味合いが強く
宵の明星は美と愛と快楽を象徴し、その為、明けの明星は男神の名前だけれど女神で、宵の明星は女神(イナンナ、イシュタル)とされた時代もあった様ですね。
なお東方に伝播していく過程で、豊穣の女神の部分のみと軍神的な部分のみに分かれて行ったのか、時代が下ると共に軍神的な要素はヒンドゥー教の女神カーリーに引き継がれて行き、その一方で豊穣の女神の部分は同サラスヴァティが引き継ぎ、仏教にも取り入れられて豊穣の女神と技芸の女神の側面を継承して生まれた弁才天女ーーー日本では「べんざいてん」と言えば「弁才天(技芸・学問)」か「弁財天(金運)」ですね。ーーーと成って行きます。
他方、余り知られていないかと思いますが、唯一軍神としての性格を持つ「べんざいてん」が、江ノ島にある江島神社にも祀られている、8本の手に武器を持つ八臂弁財天で、これはやはりカーリーの姿の特徴を引き継いでいると思われます。
これは弁才天が日本に伝わって来た最も初期の頃の姿だそうです。御利益は勝運守護だそうですから、軍神として伝わったのが先だったのでしょうか。
(江島神社には、他に二種の弁財天ーーー妙音弁財天と、弘法大師の手形が残る弁財天像が祀られているそうです。)
日本の寺社で祀られている八臂弁財天像は鎌倉時代のものが多い様です。それよりも後の時代になると、だんだんと私たちがイメージする弁財天になって行った様ですね。
因みに弁財天(弁才天)の縁日は、巳年・巳月・巳日ですから来年5月の巳日は最強(!)ですね。
光の誕生=闇の誕生
話が脱線してしまったので、元に戻しましょう。
堕ちた天使ルシファーに戦争や剣のイメージは無く、寧ろ堕落や快楽のイメージの方が強いかも知れません。
軍神的なイメージは、どちらかと言えば大天使ミカエルのものです。天秤を手に持ち善悪を測り正義の剣を振るう姿は正義の女神テミス(ギリシャ神話)またはユースティティア=アストレイア(ローマ神話)のものです。
タロットカードの正義(裁判の女神)には、このテミスまたはアストレイアが描かれていますが、星座は天秤座が割り振られています。
西洋占星術をかじったことのある人なら分かると思いますが、天秤座の守護星は金星で、ミカエルとルシファーは金星の持つ象意の光の部分と影の部分を表しているーーーつまり陰陽の関係にあるのです。
ただミカエルの場合には、その性格上、ゾロアスター教のミトラ神の影響があったのではないかと言われており、
その理由はミカエルは旧約聖書で光と闇の戦いで光側を率いて戦っていますが、これはゾロアスター教(またはミトラ教)のミトラ神も同じな為です。またミトラは太陽神とされているので、ミカエルは金星だけで無く太陽の影響も受けることになりました。
元々旧約聖書の内容は、ゾロアスター教の神話の影響を受けていると言う説もありますからね。
因みにミトラはマイトレーヤ(救世主)の語源となり、東方への伝播の過程で弥勒信仰に繋がって行くことになります。
ミカエルはルシファーと敵同士としてハルマゲドン(光と闇の戦い)を戦うことになりますが、
本来なら光が無ければ影は存在出来ず、影が無ければ光も存在出来ない様に、光と影(闇)は常に一対で不可分のものです。
旧約聖書の創世記第1章で
「神は「光あれ」と言われた。すると光があった。神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。第1日である。」と出て来るわけですが、
天地創造の際に光の誕生と共に闇も一緒に誕生していて、繰り返しになりますが、これは昼と夜が一対でワンセット=1日である様に、本来は不可分であるものです。
そしてそれぞれに役割があるわけです。
要はミカエルとルシファーは、共にシュメール神話の「明けの明星」を司る男神の要素を引き継ぎながら、アミニズム(土着宗教)の隆盛を敵視したユダヤ教やキリスト教によって、
本来なら金星神の性格・神格に内蔵される陰陽一対の存在を表していたものが分断され、
光(昼)の部分だけが正しいとされ、夜の部分は、不道徳と貶められて悪にされた…と言う説明も可能なのかも知れません。
(その際たるものが「性交」で、これ無しに人間は生まれ得なかったから、人間は生まれながらに罪を背負っている=原罪があるとされた。)
今は試験管ベビーもいますが、本来性交には性欲を満たしたり愛情を確認するほかに、パパがママの体をお母さんとして機能できるように準備してあげる…と言う意味合いもあるのだそうです。
要はまぐわっている時にパパがしっかりママのおっぱいを揉んで解しておいてあげないと、出産後の母乳の出が悪くなって、授乳時にママが痛い思いをすることがあるんだそうです。
パパとママが愛を確かめ合う時の愛撫が、子作り中のママにとっては、大事な授乳の為の準備運動にもなっているのですね。
これがしっかり出来ていないと、出産後に赤ちゃんの為に、痛い思いをして母乳マッサージが必要になるママも出て来るわけです。
(つまりそこに真実の愛と子孫繁栄の想いがある限り、快楽は「悪では無い」。寧ろ必須のものなのです。▶︎ママが出産や母乳育児の過程で不快な思いや辛い思いをしなくて済む様に、或いはそれに伴う身体的苦痛を和らげる為に必要なものとして認識するべき。)
と言うことは、ユダヤ教やキリスト教の原罪主義は人間の生命誕生の仕組みそのものを否定的に観ていることになりますが、恐らくその辺りもユダヤ教やキリスト教の教父たちのイシュタル信仰に対する否定的な感情が、教義の解釈にマイナスの影響を及ぼしていたのかも知れませんね。
(ユダヤ教における女性蔑視の在り方も、そこに原因があるのかも?でも母系社会だと言われるのに女性蔑視とか、矛盾してますよね!)
なお、一説によるとミカエルと堕天する前のルシフェルは双子の兄弟だったとする説があるそうですが、これはゾロアスター教の翻案だそうで、元々そうだったわけでは無さそうですね。
研究者によっては、実はミカエルとルシファーは同一人物で、ルシファーは鏡に映ったミカエルの姿だーーーと言う人もいる様です。
これを心理学の用語を使って説明すると、ルシファーはミカエルのシャドー(※)だと言うことになります。
一般的にこのシャドーを嫌い、否定したままだと、その人の人生は(主に人間関係において)とても面倒で厄介なものになります。自分のシャドーを認め、自分のネガティヴな部分も含めてどの様に自分自身と言うものを丸ごと受け入れ、自分を愛することが出来るか?
それは多くの人にとって人生を通じての課題だと言えます。(人生の旅の目的は自己の統合である。)
ましてや人間は原罪を背負って生まれて来ると教えられ育った人間が、精神的に未熟な段階で自己を客観的かつに公平に観るのは難しく、思考が歪んで道を踏み外してしまうのは寧ろ当然の様にも思えます。
ですが旧約聖書も新約聖書も、時の為政者や宗教的な権力者によって書き換えられ、改竄されて来たと言う話もありますので、ユダヤ教が最初から人間に原罪を背負わせるような宗教だった(旧約聖書が最初から人間に原罪を背負わせる様な内容だった)かは、正直言って分からないのでは…?とも思えます。
実際、イザヤ書やエゼキエル書のバビロンの王やツロと言う国の王に向けた預言の部分を、5世紀前後のキリスト教の教父が勝手にルシフェル(=悪魔;サタン)のことを暗示的に描いているのだと解釈して、そのように布教して行った一面もある様で、本来の旧約聖書には「堕天使」と言う概念は無かったのだとか。
そして実はそうしたバビロンの王を悪魔扱いしたことの背景には、当時この地方を覆っていた強大なイシュタル(イナンナ)信仰があったのです。
イシュタル=アシュタルトですから。
そして新約聖書の「ヨハネの黙示録」に出て来る「バビロンの大淫婦」とは、イシュタルのことなのだそうです。
謂わばそうやってキリスト教の教父たちは、地元の土着信仰の神々を、脅威に感じたが故に誹謗中傷して悪魔に貶めようとしたわけです。
が、結局それってブーメランに終わるのですよね。だから自己統合が必要になるのです。
注※;シャドー▶︎自分の中にある自分が認めたくないネガティヴな部分や感情。
ルシフェルが天界から追放された理由
そうなって来ると、何故ルシフェルが天界から追放されたのか?その理由が気になって来るところだと思うのですが、これが諸説ある様なのです。
基本的には、土塊から出来たアダムに拝礼せよとの神の命に叛いたから…と言う説がいちばん有名かもしれません。
或いは神の命に叛くほど傲慢になってしまったから…と言う説もありますがそれは上の理由として基本的には被ってもいますね。
そもそもルシフェルはミカエル同様に熾天使(※)だったわけですが、ルシフェル以外にも落ちた天使(堕天使)がいたようで、「エノク書」では「グリゴリ」と言うグループを形成していたと書かれています。彼らがやったことは、「アダムとイヴ」の「エデンの園から追放される物語」にも繋がるところではあるのですが、それは次の項目でお話しする事にしましょう。
注※;熾天使のヘブライ語での単数系はセラフ、複数形はセラフィム。9階級ある天使の位階の最上位。
ヘブライ語でのセラフには動詞では「燃やす」。名詞では「蛇」の意味があると言う。
おやおや…?ですね。
『イザヤ書』中で「蛇」の意味でこの語を用いている箇所もあり、30章6節においてשָׂרָף מְעוֹפֵף /sarap me'opep/ と述べられているそれは「fiery flying serpent(火のごとき飛ぶ蛇)」と訳されるーーーとか。
これ、普通に解釈したら西洋に於けるドラゴン(有翼竜)にしか、思えないですけどね。
アスタロト(女神アシュタルトが悪魔化された姿)が乗っているドラゴンは落ちた熾天使ーーーつまり堕天使だと言うことなのでしょうか。
イナンナ(イシュタル)▶︎エデンの園▶︎ルシファー誕生
堕天使たちが天界から追放されたのは、『第一エノク書』によれば、
アザゼルは人間の女性と交わる誓いを立ててヘルモン山に集まった200人の天使たちの一人で、その統率者の一人であった(第6章)。
200人の天使たちは女性と関係をもち、女たちに医療、呪いなどを教え、女性たちは巨人を産んだ(第7章)。
アザゼルは人間たちに剣や盾など武具の作り方、金属の加工や眉毛の手入れ、染料についての知識を授けた(第8章)。
神の目から見れば、アザゼルのしたことは「地上で不法を教え、天上におこなわれる永遠の秘密を明かした」ことであった(第9章)。
以上、アザゼル;Wikipediaより引用
堕天使たちが、人間の男女に良かれと思って教えたことが、
のだと言います。
だから、堕天使は神の怒りを買って、天界から追放された…と言うことなんですが、エノク書は偽書とされていて、日本で言えば記紀に対する「竹内文書」や「ホツマツタエ」みたいな扱いではあるのですね。
そして旧約聖書の創世記のアダムとイブの物語は、このくだりをイブが蛇に唆されて知恵の実(林檎)を食べたが故に、羞恥心を覚えて、それが神の知るところとなって、楽園から追放されると言うストーリーで表されています。
さて、いよいよここで「蛇」が出て来ましたね。
「蛇」は知恵の象徴です。「蛇」がイヴに勧めた「林檎(知恵の実)」は、堕天使が人間に与えた天界の知識や技術の象徴なのです。
だから“蛇”とは先述の様に堕ちた熾天使▶︎堕天使・ルシフェルのことだと言う解釈があるわけです。
今の時代、グレートリセットとはこの(Wikipediaのグリゴリの記述の)流れを再現していると言っても良いのかも知れません。
移民問題、企業秘密や国家機密の漏洩や盗難ーーー形を変えて現れていると見れなくも無いですね。
また、富裕層は実社会よりも20〜30年程度先を行った科学技術を使って作られた家電その他を試用していると言われていますが、今の社会の仕組みが固定化してしまって、そう言った時代の先端を行くテクノロジーを社会に導入出来ない▶︎だから光側か闇側かに関わらず、今の仕組みを一旦壊して新しいテクノロジーを導入すると言うことでは、意見が一致しているのだと言われています。
ですがアブラハムの宗教においては、そうした時代の先端を行くような科学技術を人間に教えるのは、人間社会に混乱と争いをもたらすから、神は「悪だ」と言っている…ということになります。
ここまで読んでくると、都市伝説界隈では、いわゆる世界の超お金持ちや支配層の多くは「サタニスト」だと言われているわけですが、
果たして何処までが「お役目を演じている人たち」で、何処までが「どうしようも無く闇落ちしてしまっている人たち」なのか。
少なくともその目的を達成する為に、人間の命を虫けらのように思い、金儲けの為に悪行を尽くして不特定多数の生命を犠牲にすることに罪の意識を感じていない人たちは、完全に闇落ちしてしまった人たちなのだろうと思います。
ところで熾天使の脚注にも出て来た「蛇」ですが、聖書ではドラゴンのような描かれ方をしています。実際日本の古い文語体による聖書の和訳では「龍」と訳しています。
即ち聖書では天使=龍で、神の子であると同時に神の遣いでもあるんですね。神道でも龍神は神の眷属と言う扱いですから、この辺りの考え方はシュメール・メソポタミアにルーツがあると言うことなのかも知れません。
こうしてみるとユダヤ教やキリスト教に堕天使や悪魔の概念が生まれたのは、教父たちが強大なイシュタル信仰に脅威を感じ、それらを排除しようとする心理から生まれたことが分かるのです。
そうやって、ユダヤ教やキリスト教の立場を守り拡大する為に、当時の教父たちが、その地に根付いてきた神々を貶め悪魔にしてしまうことで、どれだけの争いと腐敗を生んできたのか。
要は最初から悪魔が存在したのでは無く、人間の弱さが作り出してしまったもの…と言って良いかも知れません。
堕天使ルシファーは教父たちの弱さの犠牲になった熾天使の1人と言えるでしょう。
役割の細分化▶︎意識の分断化▶︎ 〇〇警察の台頭▶︎ 悪の排除 ▶︎社会の弱体化
さて、ここで心理学的な面での神学論風の内容で終わってしまったら、多くの他サイトと同じになってしまいます。
ですから、ここでは現実的な問題に置き換えて、今ある社会問題について考えるキッカケにして貰えたら…と思います。
例えば川口市の問題です。
最近は(川口市に限らず、不法行為を働く外国人や煽り運転などの問題で)警察があまり動いてくれないと言うと言う話がSNS上でよく投稿されるようになっていますが、
そう言う投稿のコメント欄を観ると、昔はそう言う時はヤクザが出て来て対処していた。
戦後の混乱期の警察が上手く機能出来ていない時期に、ヤクザが自警団的に動いていた…と言うコメントを見かけます。
実際つい10年〜20年くらい前までは署っ引いたヤクザに対し、警察は今で言う「司法取引」の様なことをして刑を軽くしたり、小さな瑣末なものは見逃す代わりに、大事件に絡む様な情報を提供する様働きかけて、情報を貰って捜査したり…と言う持ちつ持たれつの関係があった様です。
またそういう地域では、ヤクザがチンピラや半グレがカタギの人間に迷惑をかけないように目を光らせ、警察が動けない段階(まだ事件になっていない)で未然に処理するということもあったようです。
今でも地域によってはそういう場所があるようでして、
六代目山口組などが自警団を結成、コロナ禍で任侠道を貫く…そんなヤクザは「必要悪」か | ビジネスジャーナル
確か川口市でもそういうことがありましたよね。
日月神示の預言でも大峠の問題は「悪を利用」しなければ「解決出来ない」ような趣旨のことが書かれていたと思いますけれど、これなんかは私たち庶民にとって分かり易い、その典型パターンなのではないでしょうか。
ところが前世紀の欧米のマフィア根絶の動きを受けて、日本でも政治家や芸能界でのヤクザとの癒着が激しく糾弾されるようになり、ヤクザを排除し居場所を狭めたことで、
結果的にヤクザの構成人員も様変わりし、日本人のヤクザは殆ど居なくなったと言います。(今いるヤクザは在日の人が多いらしい。)
そして実はその結果、スパイやストーカーのような未然の防止が必要な問題に対処できなくなっていると言うことは無いですかね?
言い方はアレですけど、私たち庶民が「警察は事件が起きないと動いてくれない」と不満を言ってる、警察が動けないその事案こそが、実は以前はヤクザが介入して仕切っていた領域だったのではないでしょうか…?
ヤクザ=一種の隙間産業の一面もあったと言うわけです。
考え方によっては、ヤクザやマフィアと言うのは、古いタイプのテロ組織なのかも知れません。
ただある時代において、ヤクザやマフィアは社会に一定の居場所を見つけ、表社会に影響しそうな裏社会の問題の解決の為に、警察に手を貸すことでうまく共存を図って来たけれど、テロ組織にはそうした知恵が無いとか、或いは知恵を発揮出来ずに、結果的にさらに大きな闇を抱える組織に利用されてしまっている印象です。
他方、今の世の中には潔癖性が蔓延しており、〇〇警察と言われるような“うるさ方”が存在して、社会の闇や影を消そうと躍起になる方が少なからずいます。
でもそれも社会全体から見れば「やり過ぎ」のケースが多いのでしょう。
例えばSNSにアカウントを作ってそう言う糾弾専門の投稿ページなり、チャンネルなりを作って、一般論では無く個別の案件に対して直接〇〇警察ぶりを発信しまうのは…やり過ぎなのかも知れません。
なんでもそうですが「やり過ぎは良くない」と言うことですね。例え良かれと思ってやった事でも、やり過ぎれば結局「自分たちの首を絞める」結果になって返ってくる。ブーメランですね。
(繰り返しになりますが、光が存在する以上影は存在します。光が強くなれば影も濃くなります。この二つは不可分の存在なのです。
敵を感情的理由で消そうとすれば、自分の潜在意識は、敵だけで無く自分のことも消そうとする▶︎「人を呪わば穴二つ」になります。)
要はグレーゾーンをどれだけ残せるかが、将来的な社会の安定度合いを決めるのかもしれません。
そしてそのグレーゾーンはただ「白黒をハッキリ付けない」と言う意味なのではなく、
裏社会(反社その他)の多くはグレーの濃淡のパズル模様になっていて、それぞれが表社会(カタギ)との棲み分けが出来ており、互いに干渉し合わない様にする事でトラブルを避けると言う知恵だったのでしょう。
昔はカタギの人間が足を踏み入れるような場所では無いと言われた、謂わばスラムのような場所が日本にも点在していたと思いますが、今では数えるほどになっていますね。
そんな中で警察は、ある意味では表社会と裏社会の接点にいた存在なのです。
1日に昼と夜がある様に、そして光が無ければ影も出来ないように、表社会があるなら裏社会も無いと、トータルで見た場合に社会のバランスが取れなくなって、均衡が崩れると言うことなのかも知れないですね。
と言うわけで、今回はこれで終わりです。
最後までお付き合い頂きました皆様には、大変ありがとうございました。
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次回はいよいよ自民党総裁選を占って行く予定です。
良かったら、また次回も会いにきて下さいね。