コミュニティについて
表面上見えるものの少なさを例えて氷山の一角と呼ぶが、一般的な視線だと興味がなければほぼ何も見えていないという事はよくある。今回は、僕が頑張って海に潜って氷山の麓の底を見たい的なお話。
見ようとしなければ見えないどころか、見たいと思っても簡単に見れるものじゃない。相当な覚悟が必要だし、人生において意味があるのか?というレベルの行為かもしれない。長い目で見ると意味はあると思いたい。
大いなるメインストリーム(黒潮とか流れるプールみたいなイメージ)に乗っている自分は無力で、流される事しか出来ないし運命に抗う事は出来ないため、身を委ねるしかないとすら思っていた。うまく説明出来ないけど、自分が出来る事と、やらなければいけない事と、やりたい事と大まかに3つの道があり、それらは調整して操る事が出来るのか、という挑戦でもある。虫は鳥に食べられる為に生まれたのか?という食物連鎖の話のような。虫の一生、鳥の一生、人の人生、同じく尊い。
利用する人と利用される人の2種類に分けるのは酷だよね、と義務教育される。多様性がある、と。実際はそうではないんだけども、まぁええじゃないか良い良いと楽観的に生きた方が楽だよねと諦めて悟る。もがき苦しむのは地獄、そのように教わる。なぜ弱者を助ける必要があるのか?それは今健康だとしても、いずれ老い、病に伏し、弱者になる可能性が高いからだ。いずれ誰しもがそうなる運命だとわかっているなら、それはもうすでに弱者と言っても過言ではない、と言える。極論、情をかけるのはその人のためではなく、いずれ情をかけてもらえるように、自分の為に情けをかけるのである、という考え方。ぜんぶ回り回って返ってくるから、悪い事も返ってくるから気を付けてね、因果応報だよ、と呪いの言葉を刷り込まれる。地獄に堕ちるよと怖がらせて洗脳する。そうする事で無限に永久に連鎖が続く寸法。そこから抜け出したい。気づいちゃったワーイワイ。
ピクサー映画のファインディング・ニモを唐突に持ち出したくなった。あれはまぁ一見すると親子の絆を深めるハートフル映画なんだけども、人間のエゴで捕らえられた鑑賞用の魚は普通、水槽で退屈な一生を過ごすよね、という常識があり、その狭いコミュニティでは序列やしきたりがあり、諦めてうまくやっていくしかない。でもニモは色々端折るけど頑張って痛快にハッピーエンドとなる娯楽エンタメで、我々も頑張っていかなあきませんなぁ〜と共感となり、明日から頑張って生きよう〜と胸がスカッとする。出来るだけ胸糞悪い事にならないように生きていきたい。そのためにはコミュニティに属する、もしくはコミュニティを自ら作る、そして味方を増やして生きやすくする事が大切である、と帰結してしまう。そのためには、属するコミュニティの長に気に入られる必要があったり、作ったコミュニティと対立するコミュニティと静かに、もしくは激しく戦う必要がある。でも争いは互いに疲れるので平和にいきたければルールを作る必要があり、結局自由って一体何だい?(尾崎豊)となるわけである。全然無関係だけど先日連れて行ってもらったスナックのママに「歌声が尾崎豊っぽいかも」とおだてられて、まんまと上機嫌になりました。こじつけが上手い世渡り上手なスキルも人生には必要かも。
それはともかく、中二病的に大陸の恐ろしさをわかっているつもりで、蓄積された歴史や経験をもってして大人数が同じ考え方で攻めてこられると、なかなか勝てない。相手方も、争うというよりは簡単に蹂躙するだけで相手にもならない。数の暴力というのはどうしようもないほど恐ろしい。
ここまで一気に書いたけどもう最早酔い過ぎて何を書いていて着地点がどこなのかすらわからない。
結局、自分自身の立ち位置はふわふわと浮遊している為どこでもなくて、一体全体何をしようとしているのかは一旦忘れて、細工は流々、あとは結果をごろうじろう万次郎って事。運命に抗うのたのちぃね。