みるはこわい・みないもこわい(ft.『Eyepatch』)【Sandwiches #57】
こんばんは。最近は夜にこのnoteを書くようになりまして、それはそれでまた違ったきぶんがございます。午前中に書くのと、まあ出来上がったものに大差はないけれど……ぼやぼや綴り続けて6月、すっかり日々のグラデーションは失われたまま、うつうつと漂っております。
今日は「楽曲紹介」の日だもんで、こちら2ndアルバム『KINŌ』からM8「Eyepatch」を聴いていただきましょう。
こちらのミュージック・ビデオは先日ご紹介した「Sparkle」に続いて、クリエイティヴチーム・Jardinによって制作されたものです。おそらくもっともキャスティングに力が入れられた作品で、俳優の大下ヒロトさんをはじめとして、八巻伊織さん、ゴールド・エリカさん、LEE YOKOさん、TARO IMAIさん、そして石井リナさんといった、確固たるスタイルと存在感をもった6名のゲストが出演してくださっています。撮影も「Sparkle」に次いで大掛かりになり、東京都のさまざまなロケーションを移動して行われました(はじめて「ロケバス」なるものに乗ったのもこのときやった)。例によってわたしはカメオ程度にしか出演していないのやけど……。
強烈なキャストと景観が醸す画面の迫力もさることながら、さらに特筆すべきは写真家の青木柊野さんをフューチャーしている点でしょう。青木さんは複数の写真を素材に、AIによる画像生成技術で抽出・作成した作品で知られており、このビデオは彼の撮影の様子と、AIが実際に画像を処理しているプロセス(を映像化したもの)を中心に構成されています。
とくにAI処理の様子は、みているとちょっぴり不安なような、でもその瞬間瞬間に心惹かれるような、これまで体感しえなかった種の感情を喚起する映像になっている。「Eyepatch」の曲中では「何があって 何がない? 線を引いて ぼくとぼくじゃない それ以外」なんてフレーズが登場しますが、まさに自他の境界がゆらいでいくような地平において、「この曲に映像をつけるならば青木さんの作品のほかにない!」と言えるほどの強い結びつきを感じました。
自分と、自分以外。それを区別するのはいったいどんな回路でしょう。どこまでが「わたし」? そもそも「わたし」ってなんじゃろか? 浅薄な哲学知識しかもたぬわたしは、ここでもっともらしく引用を披露することもできません。ただ「Eyepatch」のサビで繰り返されるフレーズ、「見るのはこわい 見ないのもこわい」 というこの感覚はもうずっと抱き続けてきたものでした。
実はこのフレーズ自体、学生時代に作った曲のものを再使用した経緯もあります。そう、とにかくわたしは自分の「目の悪さ」に気づくまでに時間がかかったが(これは本当の話で「自分は目がいい」と信じたまま過ごしておるうち、どうにも黒板の字が読みづらくなり、しぶしぶ眼鏡屋に行ったら視力の著しい低下を宣告されて絶望したのやった。大学一年のとき)、自分と、自分をとりまく世界を認識するためにはやはりか明瞭な「哲学的」視界が必要なのだと痛感しながら、ぐずぐず、それを実践できずにきてしまった。
無責任に「哲学的」視界、などと変な造語を用いたけれど、すなおに明瞭な「ことば」と言い換えてもいいかもしれません。簡単なことで、曖昧なことばでもって世界をみていれば(曇ったメガネをかけるようなもんで)そりゃなんもかんもモヤモヤしたまんまよね。そして、その明瞭さは語彙とかの話ではなく、どれくらい真摯に、自分のこと・世界のこと・生きること・エトセトラエトセトラ、と向き合ってきたかに拠るのではないのかと思うのです。
スタンスの話をすれば、日々の、なんとなくの快さにかまけて、クリティカルな問いを放置し続けてきた結果が……いうまでもなく「見るのはこわい 見ないのもこわい」というどっちつかずの情けなさにあらわれている。前回ご紹介した「blank form」から引き継ぐとすれば、「瓶の中」にとじこもっている状態なのね。
目を背けたくなるようなことはたくさん、たくさんあって、そのまぶたをおろして無視してしまえば楽に違いありません。それでも、目をつむったままではわたしたち、前に進むこともできなくなる(ちょうど、この「Sandwiches」を書きはじめたころも同じことを考えていて、それで「窓の開け方【Sandwiches # 4】」なんで文章を書いたのでした)。
快・不快をこえ、おのれ自身を「正しい」方向へ導くために、ものごとをまっすぐ見つめるだけの眼力を身につけたい。それは一朝一夕にはいかぬやろうけど、さまざまな問題提起がなされ続ける2020年にあって「こわい、こわい」とぶるぶるのたまい続けるだけではもう、生きてゆけない気がしています。
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本日のおたよりはこちらです。
●ペンネーム:情報疲れさん
なぜ日本人は"アメリカ"の差別にのみ反応するのでしょうか
>>投稿ありがとうございます。おそらく情報疲れさんが疑問にもたれているのは、ここ日本でも差別があるのに、ということではないかと勝手に推測しますが……それについていえば、まことおっしゃる通りだと思います。日本にも、はっきりと差別はある。「#BlackLivesMatter」のムーブメントは歴史的な必然性のうえでついに爆発したもののはずやけど、どこまでいっても「他人事」のようなスタンスの方もいて、それはやはりか身近な実感を持たぬままにいるゆえなのかもしれません。言わずもがな特権を持つ側にいるからこそなのですけれど。
いまは、ヒトとしての尊厳を守るためにアメリカの問題に声をあげるべきなのは間違いのないことで、だって「差別をするな」となぜ言っちゃいけない? そんな当然の権利が蹂躙される世界で、どうして生きていけるのか。
だから本来は、この黒人差別問題に声を上げながら、同時にわたしたちの住む日本における差別についても立ち返って考えるのが自然な流れといいますか、そこには難しいことなどないのになと個人的には思うのです。というより、きっと本来は何を言うにも自らの立場を自覚していることは前提にあるはずですよね。それこそ「見るのはこわい」と言っている場合ではない。
とはいえ、かくいうわたしも十分なことばを備えているとは到底いいがたく、とにかく目をかっぴらいている最近であります。この「Sandwiches」においても、少しづつでもおのれのことばでスタンスを示していきたい所存です(十分な答えになっていなくてごめんなさい)。
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