自分がやられて嫌なことは人にはしないって超難しい。
「自分がやられて嫌なことは、人にはしない」
よく言われる言葉。私はこの言葉に長年苦しんできた。
この言葉を気にするようになったきっかけ
きっかけは、小学校5年生の夏。私の小学校は5年生で林間学習のような泊まりがけの研修がある。初めての友人とのお泊まり。同性4人1組で、二段ベットが2つある部屋に泊まることになった。
ベットの脇には二段の棚二つが備え付けられていて、児童たちはそれぞれの棚に自分の荷物を入れることになっている。
そこで時間があった私たちは荷物を入れた後お喋りを始めたが、その時Aちゃんが不意に棚の上の段によじ登って腰を掛け、棚に収納されるような形に座り始めた。
狭いところに入ったり高いところに登りたくなるのは、小学生なら誰でも抱く感情だ。
しかし正義感が多少あったのか、私は咄嗟に「Aちゃん、危ないよ降りて。」と言っていた。Aちゃんはしぶしぶ降りて、何事もなかったかのようにお喋りを始めた。
しばらくして、集まりなどが終わって一人で部屋にいるタイミングがあった。そこでふとさっきのAちゃんの行動が頭をよぎった。
(棚に登ったらどんな感じかな。。)
そう、棚に登りたいという好奇心が湧き出てきたのだ。
そうして独りでに棚によじ登っていると、
図らずもそれをAちゃんに目撃されてしまった。
「自分がダメって言ったのに登っちゃダメじゃん」
超正論である。
間違いないとしか言いようがない。
そんな超正論をぶつけられた私は、自己を正当化することもなく、でも何も言うことが出来ずただ棚から降りたのだった。
自分の心の中に居座るAちゃん
それ以来、自分が指摘したことは自分でもしないように心がけるのが習慣になっている。
でもそう考えることで、自分が相手に指摘した事を自分自身ができなかったとき、自分の中のAちゃんが語りかけてくるのだ。
「自分も出来ないの、ダメじゃん」
と。
棚に上げてもいいですか?ダメですよね
自分を棚に上げられない問題。
棚に上げないことは当たり前なのかも知れないけれど、ちょっと苦しい。
相手の行動を制限することで、自分の行動も制限してしまうのだ。
だから、どんな発言にも責任がつきまとう。
逆に、相手への心のキャパを広くすることで、自分の行動のキャパも広げられることがある。
例えば、遅刻に対して怒らないようにすれば、自分も遅刻したときに罪悪感が少ない。
相手のキャパは見えないし、我慢度の強さは分からないのだから相手によっては嫌な気持ちにさせているかも知れない。
そこは申し訳ない。
浮いたままの、"嫌だって思う感情"。でもそれを伝えると相手を傷つけてしまう。
ただ最近、嫌だなと思う事を相手に伝えない事で、嫌だなと思う感情自体をなかったことに、受け入れないようにしようとしている自分がいる。
それがちょっと苦しい。
一度ノートに書いて発散させてみたものの、もう一回同じ状況が起こったらきっとまた嫌な気持ちになるんだろうな、と思うと上手く発散できた気がしない。
逆に嫌なことを嫌だな、と伝えられる関係の人は、とことん強く言ってしまう自分もいる。
それもだいぶ相手に迷惑をかけている。
申し訳ない。
皆さんは、自分にとって嫌だなあ、と思う感情を、どう整理して、折り合いをつけていますか?