バレリーナのお点前
「茶道を学びなさい。」
ぽかんと口を開けて立ち尽くす、私の手にはバレエシューズが握られていた。
それはもう10年も前、宝塚歌劇団で下級生だった頃。
私はその日、公演のお稽古の前にバレエのレッスンを受けた。
レッスンの終わりに先生は、着替えに向かう私を呼び止めた。
若かりし頃は「白鳥の湖」の王子様がぴったりだったであろう、ダンディな先生だ。
筋肉の伸縮や呼吸法についてなどの、専門的なスパルタレッスンで生徒たちに恐れられていた。
その先生が、なんと茶道を学べと言うのだ。
厳しい顔つきに圧倒され、その言葉に関して質問することは出来なかった。
宝塚音楽学校には、茶道の授業があった。
だが、必死でタカラジェンヌをめざす、ただの子供だった私にとって、茶道の真価を学ぶなど遠い道のりだった。
つまり、基本的なお作法(それすら、もう完全には思い出せない有様だ)とお茶菓子の名前を覚えただけで、1年間の授業を終えてしまったのだ。
なんと勿体ないことをしたのだろう。
毎日全力青春少女だったが、茶道の授業だけはもう一度やり直したい。
公演のお稽古真っ只中だったため、茶道教室に通うことを断念した私は、茶道の本を購入した。
お作法のテキスト本ではない。
茶道の歴史、心得、茶道を極めている人の半生が綴られていた書籍を3冊選んだ。
バレエの先生が言わんとしたのは「茶道のお作法ができるように」ということではないと理解していた。
先生が叩き直したかったのは、私の精神力の弱さだ。それだけは、分かっていた。
一人前にしっかりと生きているつもりだった私は、とても悔しかった。
その悔しさに背中を押されるように「やってやるぜ!」と読書を始めた私は、たちまちのめり込んでしまった。
季節を感じること。
人をもてなすこと。
慮ること。
自らの心をととのえること。
日本の人たちが大切にしてきた心がけが、茶道の中に凝縮されている。
一杯のお茶はあまりに深遠で、ため息をついた私は本から顔を上げた。
先生。私には、足りないことばかりです。
結局。忙しさを言い訳にして、それ以上茶道についての学びを深めることはなかった。
努力を怠った私は、自分に足りないものが何か、まだ分からずにいる。
2年程前、「初釜」というものに呼んで頂いた。
年始の、大切なお茶会だ。
和装ではなくて良いし、お作法を知らない人も気軽に参加できる会だから安心してと言われ、素直に安心していた。
前日になって、初釜には白い靴下が必要だと知って慌てて、仕方なく父の白靴下(未使用品)を借りた。
初釜は、目にする物全てが新鮮で、きりりと背筋が伸びる清々しい場であった。
またしても茶道の本質を学び損ねた私は、明らかにぶかぶかの白ソックスを履いて、堂々と微笑んでいた。
世の中のあり方が劇的に変化した、昨年から今年にかけて。
私の友人や知人の中に、茶道に心惹かれる人が増えている。
茶道教室の体験レッスンに行こうとしている人が数人。
友人Nちゃんなんて、必要な道具を自宅に揃え、オンラインで本格的な茶道のお稽古を受けている。
状況の変化に伴って興味の幅が広がったり、茶道の精神に注目する人が増えただけなのか?
しかし、うわべの流行や軽い気持ちにふわふわ流されない人たちが、次々と茶道を始めているのだ。
これは、きてるんじゃないの!? お茶の波が!!
私の人生に、再び茶道が「こんにちは!」と手を振っている。
10年前、私に欠けていたものは何か。
私は、何を学ぶべきだったのか。
今更知って、遅すぎる後悔をしてみたいのだ。
止まっていた時計が、不意にコチコチと再び音を立てるように、何かがほんの少し動き出すかもしれない。
あの時、先生が指摘したかった私の弱点は、きっとまだここにあるから。