成人式と住民票と二十歳の原点
1990年、国立私立大学とも志望校を全落ちした19才の私は、浪人と相成った。
地方とはいえ、有名大学に続々と進む高校だったから、悔しさは一入(ひとしお)だった
センターでも数学が絶望的だった私は、国立はムリと悟り、私立三教科(英語、国語、地理)に絞ることにした。
赤本で大学毎に出題傾向が違うことも知った。
ウチは金がないので、予備校には行けなかった。温かく支えてくれた、親への感謝は計り知れない。
一浪後、どうにか希望する大学に合格できた私は20才を迎え、東京の初台の43,000円風呂ナシアパートに引っ越した。
1992年1月15日、なぜか渋谷区から成人式の案内が来た。しまった!と思った。
もちろん知ってる同級生などいない…
住民票を青森から渋谷区に移した私は
「渋谷区民」
だったからだ。
渋谷公会堂の席に腰を下ろし、プログラムを眺めながら「紅白歌のベストテン」や「歌のトップテン」はここでやってたのか…
などと、田舎者の私はミーハーな感慨に耽っていた。
成人式といえば、地元小中のクラスメートが再会して、酒を飲みながら思い出話をしたり、キレイなった女子とロマンスが生まれたりするイベントだと勝手に思っていた。
顔も名前も知らない渋谷区長の「みなさんおめでとう」の挨拶の後、ゲスト千堂あきほの全く知らない歌を聴きながら(笑)
私は独りで、理想と現実のギャップにさいなまれていた。
「地元に住民票を残しておくんだった」
というフレーズが心で何度もリフレインしていた。
もちろん、いろんな手続きのためには住民票を移したほうがよいが、こと成人式までは移さないほうがよいと思った次第。
昨今、成人式といえば、派手に着飾ったり、ヒドイのになるとバイクや車で暴走まがいの輩もいるが、「終わってるな(笑)」と思う反面、やり方はさておき、自己表現してる彼らがちょっとうらやましくもある。
まあ、一部地域だとは思うが…
1969年、立命館大学に学びながら、学生運動の懊悩の末、鉄道自殺で20才で亡くなった高野悦子は「二十歳の原点」という日記著作で、
「独りであること、未熟であること
これが私の二十歳の原点である」
という有名な言葉を残した。
母の本棚にあったものだが、人間は元々不完全なものであること、孤独であることを肯定しており、深く共感したものだ。
また、当時の私も含め、不謹慎な言い方だが、二十歳というのは良くも悪くもまだ「バカ」だと思っている(笑)
言い換えれば、怖いもの知らずで、明確な夢もないのだが、
「何にだってなれる」
という妙な万能感があったように思う。
今の子はどうなんだろう?
とりあえず、孤独を恐れず、たくさん遊ぶなり、旅するなり、酒を飲むなり、バイトするなりして、見識と包容力のある日本人になってほしいなと、反面教師のオッサンは思っています。
オメデトウございます。
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