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小説|夏日影に消ゆる君 #11
十一、
湊少年を助手席に乗せ資料館へと向かう。
ため息を吐きそうになるのを何度も堪え、その都度咳払いでごまかしていたら、湊から風邪を疑われたのが先刻のこと。「どうせ冷房つけっぱなしで寝てたんでしょ!」とからかわれ、飴を渡された。
口の中でカランと音を立てるグレープ味の飴玉が、いくらか暗い気分を紛らわせてくれている。
「昨日は詩音くんのおかげでだいぶ課題が進んだ気がする」
湊は嬉しそうにネタ帳を眺めているが、正直何も覚えていなかった。
それでも湊からは「いいものができそう!」と喜ばれているので、無意識の自分にはあとで労いの言葉でもかけてやらねばと思う。
夕方湊を家へと送り返したあと急いで裏山へと向かったが、琉生の姿はなかった。
西の空には沈んだばかりの太陽の色がまだ残っていたが、今日も会えないのだろうと諦め家に戻った。
今朝は日の出の時間に合わせて山を登った。
暗い山道は相変わらず険しく、何度か足を滑らせた。
今日は少し風が強い。ざわざわと音を立て激しく揺れる草木に焦燥感を煽られた。
ススキの道を抜けたところでほんのわずかに花の香りが届いたが、普段なら辺りを満たすほど漂っていた香気も、今日はまるで水に浸けた綿飴のように儚く一瞬で風の中に消え去ってしまった。
琉生は今日も現れなかった。
資料館は予想よりも混み合っていた。
やはり夏休みということもあり小学生くらいの子供を連れた親子が目立つ。
この資料館は昨年末に改装工事を終えたばかりらしく、建物の中は新しい建材や木の匂いに包まれていた。
チケットを二人分購入し、一枚を少年に渡す。
「おれ時間かかるから、詩音くんは好きなとこ見てて」
「わかった。ほいたら待ち合わせ場所だけ決めちょこか」
「うん! 待たせちゃったらごめんね」
「えいえい。俺もいろいろ見て周るき、気にせんとゆっくり周りやぁ」
壁のフロア案内板で良さそうな休憩スペースを見つけたので、そこを待ち合わせ場所にして二人は別れた。
展示品は二階の常設展示室と三階の特別展示室に展示されていて、二階と三階を結ぶ緩やかなスロープの壁にも絵や文が展示されている。
詩音は二階の常設展示室から見て周った。
このフロアではこの町の歴史のほか、戦時下の暮らしが実物資料とともに展示されていた。
本当はもっとゆっくり周るべきなのだろうが、ひとまず目的のものを探したい気持ちが先立ってしまう。
幸いここの資料館は一方通行ではないので、気になる展示があれば後で戻ればいい。
(湊はたしか夏休み限定の展示ち言いよったよにゃあ)
やはり目的の展示品は三階の展示室にあるのだろう。
詩音は逸る気持ちを抑えきれないままスロープを駆け上がったのだが──。
おかしい。
先ほどまで、いや、スロープでもたくさんの人とすれ違ってきたはずなのだが、三階は人払いをしたかのように誰もおらず静まり返っていた。
広い廊下を進む。この廊下はゆるいカーブになっているらしい。全体的に照明が落とされてはいるが怖さはない。床には今回の特別展示のタイトルロゴが等間隔にスポットライトサインとして映し出されていた。
展示室の入口が見えてきた。入口は天井まであるガラス張りでドアはなく、廊下のカーブを利用してそのまま室内に誘い込まれるようなデザインだ。
ガラスには『夏日影に消ゆる君』と、明朝体のタイトル文字が貼られていた。
一歩、また一歩、詩音は静かに足を踏み入れる。
「……!?」
突然噎せ返るような花の香りに包まれた。
間違うはずがなかった。嗅ぎ慣れたこの匂い。いつも琉生から匂い立っていた梅の香。
辺りを見渡す。部屋を満たすほどの花香だが、なんとなくいつもと違って感じる。妙に現実味があるというか、部屋のどこかで本当に香を焚いているような──あった。
少し離れたところ、二つの展示ケースの間に置かれた小さなテーブルの上に、丸い小ぶりの香炉が一つ。
蓋に空いた穴から時折ゆらゆらと白い煙が昇っているのが見える。
どうしてこんなところに。
ある意味匂いの出どころがちゃんとした所でよかった気もする。普通こういう場では線香が立てられている気もするが。
詩音は再び歩みを進めた。
最初の展示パネルの前にやってくると、そこには今回の企画についての思いが館長の言葉として綴られていた。
『この町から出た三名の若き特攻隊員の』
『飛行学校の教員たち三名は』
『戦況の悪化で飛行学校が閉鎖』
『職を失った教員らが戦地へと向かった』
次々と目に飛び込んでくる特攻隊員たちの過酷な人生行路、そして運命。
読んでいるだけで胸の奥が潰されそうで、目の奥もじんと熱くなる。
しばらくパネルの前で立ち尽くしてしまった。この三名の中にもしかすると、と考えてやめた。答えはすぐそこにあるのだ。
すぐ隣の展示ケースに写真が飾られているのが見えている。
覚悟が鈍る前にと詩音は一歩を踏み出した。
ケースの前までやってきて一呼吸。そして、ゆっくりと視線を下ろした。
「…………」
琉生を見つけた。
軍服姿に小さな日の丸のついたパイロット帽を被って、戦闘機の前だろうか。凛々しい目をした青年がこちらを見つめている。
よく見知った顔だがやはり詩音に見せていたそれとは少し違い雄壮さを感じさせた。
展示ケースには個人の写真だけでなく、集合写真も何枚か展示されていた。
琉生は飛行学校の教員になったばかりらしく、歳の近い訓練生たちから親しまれていたのだろう。皆と笑顔で写っている写真もあった。
一枚一枚、ゆっくりと写真を眺めていく。自分の知らない琉生の姿を目に焼き付けるかのようにゆっくりと。
展示ケースが途切れ、詩音はまた次の展示ケースへと足を運んだ。
ここには隊員たちの遺した手紙や手帳が展示されていた。
ふと、可愛らしい女性の写真が目に入った。
キャプションボードには琉生の妻だと書かれている。
「おんし…………聞いちゃあせんぞ」
詩音は低く唸った。
声に出して呟いたのは胸の痛みを誤魔化すためだ。
どうしてここにきてこんな失恋めいた気持ちにさせるのだと恨み言の一つでも言いたくなったが、それを言える相手はここにはいない。
琉生の手帳には特別攻撃隊の命を受けた日のことが日記として記されていた。
妻にどう切り出せばよいのかと悩みなかなか言えなかったと、静かな筆致で綴られている。
次に展示されていたのは妻からの手紙だった。
琉生が地元を発つ日に渡されたらしいその手紙は、彼の手帳に大事にしまわれていたそうだ。女性らしい流麗な字で「ご成功をお祈り申し上げます」と書かれていた。
「 !」
「 !」
不意に浮かぶ先日の夢。
目覚めとともに忘れてしまったはずの夢が鮮明に思い出される。
「 とって!」
「行かんとって!」
「琉生さん! 行かんとって!」
あの夢の中で自分が何を叫んでいたのかはっきり聞こえなかった。だが、たった今すべてを思い出した。
町の子供たちが大喜びで飛行機を追いかける姿が見える。憧れのパイロット、憧れの特攻隊が町から三人も抜擢されたのだ。笑顔で見送るべきであった。皆そうしているのだから。
けれど、子供たちの溌剌とした声を聞けば聞くほど、周りが誇らしげな顔をすればするほど、感情と現実が乖離して何だかわけがわからなかった。
「行かんとって!」
周囲の大人たちに押さえつけられ、何てことを言うのだと叱られた。
あれは、あの夢は、遠い昔の詩音の記憶なのだ。
三機の飛行機を操縦するのは琉生と先ほど写真で見ていた教官二名だろうか、三機のうちの一機がゆらゆらと羽根を上下に振りながら頭上を飛んでいく。
轟音とともに聞こえるのは子供たちの喜び勇む声と蝉の聲だけだ。
戦地へと向かった琉生らの尊飛行隊は一旦九州地方の基地に着陸した。
尊隊が基地に到着したその日、妻は町上空を飛んでいた米機の銃弾を右脇腹に受け命を落としたが、琉生にそのことが伝えられることはなかった。
「……ッ、」
痛みなど感じたことのなかった脇腹の傷がじくりと疼く。
妻の死を報されないまま戦地へ往った琉生のことを思うと胸が張り裂けそうだった。
報されなかったのはただ単に沙汰がなかった、或いは間に合わなかったか、それとも琉生を気遣ってのことだったのか。今はもう知る由もない。
九州地方の基地に到着した琉生らの尊隊は数日後に基地を発ち、同日敵艦隊に特攻。
壮烈な戦死だった。