小説|夏日影に消ゆる君 #6
六、
開いたままのノートパソコンとタブレットの画面は、とうにスリープモードに切り替わっていた。
居間で仕事をしていた詩音は、キーボードに両手を置いたままぼんやりと画面を見つめている。
今朝の抜け落ちた記憶について、思い出そうとすればするほど、掬い上げた水のように次々とこぼれ落ち、それどころかはっきりと覚えているはずの前後の記憶すら輪郭がぼやけ始めてしまう。
琉生は確かにいた。会話もした。けれど。
(どういても思い出せんちや……)
額に手を置き深い溜め息を吐きながら、ノートパソコンの脇に置いてあった腕時計に目をやると、時計の針は午後五時を指していた。
今日中に片付けてしまいたい仕事はあるけれど、気分転換のためと自分に言い訳をし、詩音はもう一度あの場所へ行ってみることにした。
今朝の抜けるような青空はいつの間にか分厚い雲に覆われており、今にも雨が降り出しそうだ。
台風の生暖かく湿った風に煽られざわざわと音を立てて揺れるススキの道を抜けると、またあの花香が優しく漂い琉生の気配を知らせた。
琉生はいつもの倒木ではなく、その奥に続く細い道の途中に佇み海を眺めていた。
詩音は声をかけようと一歩踏み出したが、靡く髪の隙間から覗く美しい横顔が悲痛に歪んでいることに気付き、思わず立ち止まった。
曇天に霞む水平線には雨が降っている。
遠くを見つめる琉生の目は、この黒い海に呑み込まれたかのごとく暗く、詩音の心を掻き乱した。
声をかけられるような雰囲気ではなかったが、このまま何も見なかったことにして帰ったとて、琉生のことを忘れ仕事に没頭できるとは到底思えない。詩音は何も気付かない振りをして、出来るだけ明るい声で彼の名を呼んだ。
振り向いた琉生に先程までの悲痛な表情はなく、今朝と同じ愛おしそうな目を詩音に向けた。
「今日はなんちゃあ仕事に集中できざったき気分転換じゃ。ほぉいやおんし、仕事は何しゆうがな?」
「んー? ……飛行機の操縦士」
「たまぁ……! おんしパイロットかえ! えいにゃあ、かっこえい……ほんにかっこえい!」
パイロットといえば男なら一度は憧れる職業だ。しかし、かっこえいかっこえいと興奮気味に琉生を褒め立てる詩音に対し、琉生は「そうでもねぇよ」と答えるのみで、あまり多くを語ろうとはしない。
詩音は再び遠くに視線をやる琉生と同じ方角を見つめると、まるで快晴の日の眩い大海原を眺めるかのような目をして羨望の念を口にした。
「まぁ、特殊な職業やき、えいこともあれば辛いこともあるがじゃろう。けんど、選ばれたもんにしか見ることの出来ん景色ちゅうがはやっぱり憧れるちや」
「どんな風景よりも、ここから見る景色の方がオレは好きだけどな」
静かに語る琉生の声色があまりにも哀切に満ちており、詩音が思わず琉生の方に視線を戻すと、遠くを見つめていたその目はいつの間にか伏せられていた。
風に揺れる前髪ですぐに隠れてしまったが、長い睫毛がほんの少し涙に濡れて束を作っているように見えた。
あまり深く聞きすぎてはいけないような気がして、詩音は話題を変えるため先日から気になっていたことを尋ねてみる。
「琉生はこん町で生まれたがか?」
「あぁ、生まれも育ちもこの町だ」
「生まれ育った町が他のどがな風景よりもえいち思えるがは幸せなことじゃな」
「そう、かも知れねぇな」
伏せられていた目が優しい眼差しに変わり、ゆっくりと詩音を捉えた。
双眸の奥の光が昔を懐かしむような色をしている。呟く声にも旧懐の想いが溢れた優しい音が含まれていた。熱い視線に捉えられ一気に頬が上気する。
「ほ、ほうじゃ、そっちの道はどこへ続いちゅうが?」
気恥ずかしさに上擦った声で琉生の後方に続く細い道の奥を指差すと、琉生は「見てみるか?」と言って返事を待たず歩き出した。
西側へと続く細い道には二人の胸の高さほどある低木や雑草が生い茂っている。道は緩やかな右カーブを描く下り坂だった。
「こっちも晴れてりゃなかなかの景色なんだがな…」
三十秒ほど歩いたところで再び道が開けた。前を行く琉生の背中からひょいと顔を出すと、そこには視界いっぱいに広がる港町があった。
「うおおおお!」
詩音は岩崖の傾斜ギリギリのところまで駆け寄ると、眼前に広がる港町を隅々まで見渡した。
分厚い雲に覆われた町は日の入りにはまだ早い時間帯だったが、そこここで明かりが灯り始めている。空の低い場所をちぎれ雲が風に流されていた。
「オレん家はあの辺」
詩音のすぐ後ろに立ち、琉生は少し北側の山と町の境界に位置する町の傾斜地を指差した。
突然背中に琉生の熱を感じて思わず振り返った詩音だったが、夏の空の色をした眼に至近距離で見つめられ、あまりの恥ずかしさにすぐさま前を向いてしまった。可笑そうに笑う琉生の耳あたりの良い声を聞きながら身じろぎひとつ出来ずにいると、琉生は詩音の名を愛おしそうに口にして、それから力一杯抱き締めた。
詩音の髪やうなじ、耳などに口付けを落としながら、琉生は無意識に身体を強張らせている詩音の肩の力が抜けるのを待っていた。しかし、あまりにも詩音がその身を固くしたまま動く気配がないので、前に回していた手を詩音のシャツの中に入れ脇腹を撫でてみた。
「……ぁ、ちょっ、琉生?!」
詩音が焦ったような声を上げながら身を捩った。その反応を面白がるかのように琉生の手はシャツの中を這い回る。右手が詩音の右脇腹を掠めたとき、何となく手のひらに妙な感触を覚えた。琉生は違和感を除きこむようにして密着していた身体を少しだけ離した。
「……傷?」
右脇腹の少し背中側に五センチほど皮膚の引き攣れた場所があった。詩音は一瞬何のことを言っているのかわからない風な反応を示したが、すぐに生まれつきのこの傷のことを言っているのだと理解した。普段何も意識したことがなかったため、言われるまでコロリと忘れていたのだ。詩音がそのことを伝えると、琉生はまた詩音の身体を強く抱き締め黙り込んでしまった。
沈黙を破ったのは雨だ。
小降りだが大粒の雨が灰色の空から次々と落ちてくる。じきに大雨が来るであろうことは簡単に予想がついた。遠くでは雷も鳴っている。
「いかん、ざんじ降りんと」
琉生の腕の中で身体の向きを変えながら詩音は言った。大雨の中この山を下るのは危険だ。
「おんし、いっつもどっから登ってここに来るが?」
「ん? あぁ。……そこ、細い道があるだろ」
琉生の視線を追うように辺りを見渡すとススキの抜け道のに似た細い道が見える。道の先は雑草に覆われている。琉生はこの道を降りると県道二四七号線のすぐ近くに出るのだと教えてくれた。
「二四七号線からやと家まで遠いやいか」
「そうか?」
「車で送っちゃおで?」
「あー……いや、いいわ。お前今日疲れてんだろ? 今朝だってぶっ倒れたじゃねぇか」
思い出した。詩音は弾かれたように琉生の両腕を掴み詰め寄った。
「ほ、ほうじゃ! 俺、今日!」
「ほら、もう戻んねぇと」
「けんど……」
消沈している詩音の雨に濡れた癖っ毛は元気にクルクルと跳ねている。
琉生の手が詩音の頬から耳を掠め後頭部に回される。静かに引き寄せると詩音は素直にこちらに身を預けた。琉生の肩に額を乗せ、まだ離れたくないのだと、その腰に腕を回した。──名残惜しい。そんな簡単な言葉では言い表せないほど詩音の心は別れを拒んでいた。
「またすぐ会えるろ?」
「………」
「会えるち、言うとうせ……」
「あぁ、また会えるさ」
ゆっくりと身体を離す。後頭部に添えられていた琉生の手が頬にかかり、親指が詩音の唇をそっとなぞった。伏せた瞼を上げるのとほぼ同じタイミングで触れるだけの軽い口付けを落とされた。