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ポスドクは学生に何を見せることができるのか

僕自身がポスドクとして今の研究室にお世話になるようになって、そこの学生に対するポスドクの果たす意味・役割について考えることが増えた。

ポスドクとして学生にいい影響をもたらせられているのかなということだ。

何でこんなことを考えるのかと思えば、僕自身が大学院の学生の時に実はポスドクがいなかったことが原因だ。

当時、研究の相談がしやすい先輩がいたらなぁと思うことも多く、そんな頼れる存在こそポスドクの価値だと考えていた。

しかし、これまで生態学にとりくんできた僕にとって、機械学習やスポーツを専門とする現在の研究室は分野が大きく異なることもあり、頼りになるどころかむしろ教えてもらっている立場なのだ。

そんな自分自身の姿に対して、「ポスドクとしての役割果たせてねーなぁ・・」と心の奥底で不甲斐なさを感じていた。

つい先日も、手法である機械学習にこだわりすぎたことによって、提案する研究テーマが手法ありきのつまらないものばっかりになってしまうという最悪のスパイラルにハマっていた。

毎週あるチームミーティングでしゃべることもなかったので、自分が失敗したことをしゃべりながら、クソダサいな・・・と思っていた。

ポスドクとしても研究もうまくいってないし学生にも頼られないし、全然貢献できてないなぁと、僕を雇ってくれているボスに対して申し訳なさしかなかったのだ。

そんなある日、B4の学生がミーティングであることを言ってくれた
「○○さんが以前おっしゃっていた、手法ありきではおもしろい研究にならない話が自分に刺さって、いろいろ考えた結果前に言ってた研究テーマのこの部分はナシにしてこっちに集中してやろうと思ってます」

それを聞いて、僕は自分の存在意義についての考えを改めることとなる。

そういえばそうなのだ。研究なんてうまくいかないことだらけなのだ。
そもそも、研究で大事なのはうまくいかなかったときにどうするかなのである。

いくつもの失敗から新たな学びを得て、新しいことを発見することが研究なのに、知らず知らずのうちに「うまく結果を出すこと」がよい研究だと思ってしまっていた。

いろんな失敗も込みで研究を楽しむ姿勢こそ、研究者のあるべき姿だという気付きをもとに、ありのままの姿を見せようと思い直したのである。

教育者と学生という関係ではないポスドクにとって、人一倍研究を楽しんでいる姿を見せることこそが仕事なのかもしれない。

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