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■一人称「ぼく」の意味

「詩集」を読んで (14) 不定期刊

◇さっきまでは薔薇だったぼく
最果タヒ著 2022年4月 小学館刊

女性の表現者が、その創作物で「ぼく」を一人称として使うケースはそれなりにある。
すぐ思い出すのは、シンガーソングライターの森田童子だったりする。
少女漫画、詩歌、小説などでもままあるだろう。
最果の最新刊詩集も、そうである。
女性作家が、「ぼく」として語り、表現する理由は何か。
私、あたし…ではない、ぼくという言い方で表しやすい世界がある…ということか。
書き手が女であるのに、「ぼく」を使うのは、何か子供じみていると感じるのだ。御年36歳の最果が、いまさら「ぼく」というのはいかがなものか、と思う。
彼女の初期(20代前半)の詩集も同じような書きぶりだったのかどうか、何冊か読んではいるが記憶にない。
この最新詩集も、僕の中ではその思いに共鳴するものはなかった。
人気(?)女性詩人だけに、「何かすごいものがあるんだろう」と思って、何冊か読んできたが、もう読まなくてもいい、というのが率直な感想。

◇狸の匣
マーサ・ナカムラ著 2017年10月 思潮社刊


たぬきのはこ


先日は、マーサの「雨を呼ぶ灯台(2020年刊)の感想を書いたが、この詩集はそれに先立つ3年前に発表された彼女の第一詩集である。
20編の詩が収録されているが、どれも彼女が見た夢の世界を文字化したような印象である。
夢にみた世界を抽象的な、理解しがたいものでなく、等身大の生身の自分に引き寄せて、現実世界の人に伝えようとする書き方をしている。
この点に、僕は共感する。
「雨を呼ぶ灯台」よりこちらのほうが、すごい、と感じた。

例えば、「柳田國夫の死」では、
「言葉を求められて、/柳田さんに手紙を出そうとして 膣に投函し、/そのことを告げにお家にうかがったとき、――」
なんていうのに、僕はしびれた。
覆面詩人とは違い、はっきり顔出しもしている、マーサの潔い筆致に感心したのである。
この程度の書きぶりで驚くほうがおかしい、鈍いのかもしれない。
しかし、詩に限らずなんでも表現することが自由である今、noteを含めてぬるいことばかり書き、程度の低い蘊蓄をだらだら垂れ流す――といった文章が多数。
その現状に照らせば、こういう書き方に、「おっ!」と思うのである。

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