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夢、ひらり

 放課後の校舎に、灰色のチャイムが響く。
 文化祭も終わって1週間ほど経った校舎は、どこまでも重く灰色だ。図書室の窓から見える大きな山をじっと眺める。あんなに青々としていた山も、いつの間にか鈍い深緑になり、先端には僅かに化粧が降り積もる。
 過去問の同じページを開き続けて、どれぐらいの時間が経っただろうか。

 「こんなところにいた、馨(かおる)。」
 「恵太こそ、もう帰ったのかと思ったよ。また駅まで彼女見送ってきたの?」
 「まぁ、そんなとこ。」
 「相変わらず熱心だねぇ、僕にはそんなまめなことできっこないや。」

 僕はまるで恵太が来るのを待っていましたと言わんばかりに参考書や過去問の類を通学カバンに投げ入れ、図書室の廊下に既に出ている図体の良い友人を小走りで追いかける。
 「お、京ちゃんとよもぎ、2人ともサイゼにいるじゃん。」
 恵太は2つのアイコンが重なっている位置情報共有アプリめがけて、ウンコの絵文字を連打する。例に倣って、数個ウンコの絵文字を送信しておく。
 彼らはいつ何時でもこんな絵文字を送りあえる貴重なメンバーだが、数タップ指がずれて誤ってクラスラインにでも送ろうものなら、僕の2年半の穏やかで慎ましい学校生活が音もなく崩れるのだろう、そんな事を妄想しながら、風に煽られて駐輪場に横たわっている愛車を起こしに向かう。

 僕の安い青フレームの自転車と、前後にカゴのついた恵太のママチャリが灰色の校舎から遠ざかる。
 校舎から離れてもなお、灰色はどこまでも僕らを包む。高校沿いから街の中心街を流るる川には、鷺がぽつりぽつりといるばかりで、幼き日の遊び相手であった生き物達たちの気配はいつの間にかどこかへ消えてしまった。
 灰色の道は途切れることなく、道は少しずつ舗装され市街地に向かう。

 目的地の駐輪場には、僕と色違いの黒フレームの安自転車と、ライムグリーンのスポーツバイクが並ぶ。店内に入ると、自転車の持ち主たちは、ドリンクバーをまばらに机上に並べ、英単語集とにらめっこしていた。
 「お、やっと来た来た。折角返信してあげたのに、あれから連絡ないからどうしたかと思ったよ。」
 つやつやとした黒い前髪をセンター分けにして、いかにも整った顔立ちの男がこちらに向かってスマホをぶんぶんと振る。自分のスマホの画面を点けると、「yomogi : [絵文字]」の通知が大量に届いていた。わざわざ確認するまでもないが、おそらく僕らが送信したものと同じ絵文字が返信されているのであろう。そして、位置情報アプリには4つのアイコンが重なって表示されているのだろう。
 僕たちはめいめいに勉強に励んだ。
 店側からしたら数時間もドリンクバーで粘って大迷惑だろうが、幾重にも重なった人々の声や、店員が下げる皿のカチャカチャとした音が心地よく耳を撫で、僕のボールペンを走らせる。学部は違えど同じ地元大学を目指す京ちゃんとは過去問の教え合いができるし、国公立を志望するよもぎは僕の苦手な英語長文を丁寧に解説してくれるので4人の勉強会は結構好きな時間だ。
 陽が暮れる頃まで勉強し、最後に4等分したMサイズピザをコーラで流して店を出る。ドリンクバーだけで長時間粘る罪悪感を拭うという名目のもと、単品ドリンクバーをセットドリンクバーに変更することで値段は変えずにピザも食べることができる。バイトが校則で禁じられた貧乏高校生達のルーティーンだ。

 さびれたファミレスを後にして、4人は自転車にまたがる。
 駅前の辺りは街で一番の繁華街だが、数か月前にオープンした駅前の居酒屋は、まるで街の人に出ていけといじめられているかのように客足が無い。かといって昔からの店が繁盛しているのかと言われると、シャッターの開かない店、店主が趣味で続けているだけのような店、あとは常連しか通わないスナックやバーがぽつぽつと並んでいるだけである。
 川沿いをさらに南下していくとクリーム色の壁の並びたちと小さな公園が見え、僕らの自転車は別れを告げそれぞれの方角に向きを変えながら走行していく。ただし京ちゃんは僕と隣の棟なので、手前の駐輪場までほとんど同じ帰路をゆく。

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 帰宅すると、僕を迎えるのはテーブルの上の書き置きのみだった。どうやら母も姉もパートやバイトのようだ。
 簡単にレトルトの夕食を済ませ、勉強机にノート類を広げる。しかし、すぐさまに勉強に取り掛かるわけでもなくなんとなく机でぼーっとしてしまう。受験生の発言とは思えないが、勉強はやる気が出たときだけやった方が、効率が良いと思っている。
 ふいに窓の外に視線を向ける。隣の5号棟の4階、右から4つめの部屋に灯りがついている。京ちゃん、佐久間右京の家だ。僕も同じ高さの4階の部屋なので、昔から見間違えることのないオレンジの灯りだ。
 この窓から、ほか2人の灯りを目視することはできない。木村よもぎは1号棟、白井恵太は8号棟とやや離れた棟に彼らは暮らす。


 ついつい、窓の外を眺めてしまう。流石にそろそろ勉強をしなければという気持ちはあるものの、どれだけ待とうとやる気はやってくる気配を見せない。棚の隅に数枚入っている模試の結果用紙を手にとって眺めてみるものの、どれも笑顔でお知らせできるような数字ではない。

 避けて通れるのならば、受験なんかしたくない。よもぎのように頭が切れるわけでもないし、京ちゃんのように興味のある学問があるわけでもない。恵太は受験勉強の気配が見えないと思えば、夏の終わり頃にさらっとバスケのスポーツ推薦を取ってしまった。
 こんな性分の僕を定期的に勉強会に巻き込んで面倒を見てくれる3人の存在をありがたいと思いつつも、どうしても引け目を感じてしまう。

 隣の棟にも灯りが増えてきた。
 YouTubeで適当に作業用BGMを検索し、大きく伸びをして、英語の参考書を開く。


 大月北高校に4限終礼のチャイムが響く。古典教師の授業はかなりの確率で授業時間が延長するので、水曜日はきつい空腹を感じながら古典に向き合う羽目になる。
 今週も無事に古典の洗礼を受け、財布を抱えて小走りしたものの、食堂はほぼ全滅と言っていい惨状だ。
 パン棚を見渡すと、オムレツパンが残っていた。北高生には人気がないようだが、この食堂での好物のうちの1つだ。代金を支払い、オムレツパン2つを無事手に入れた。

 空いているテーブルに座り、オムレツパンを貪る。コッペパンにオムレツと野菜が挟まれたシンプルなパンだ。オムレツは、ビジネスホテルの朝食バイキングで出てくるような機械で形成されたオムレツで、いわゆる業務用といわれるチープなオムレツだ。そのチープさが不人気の原因だろうが、僕は意外とこういうものが好きだったりする。
 「お、いた。」
 オムレツパンを咀嚼しながら振り返ると、センター分けの男が弁当袋を抱えて立っていた。
 「よもぎはこれから飯?」
 「そそ、化学の実験の後、先生と少し話し込んじゃってね。もうはらぺこ。馨(かおる)はオムレツパン?本当にそれ好きだねぇ。」

 僕とよもぎはよくスマホゲームのイベントの進捗について状況報告をしながらお昼を食べる。彼は勉強にかなりの時間を割いているはずだが、クリスマスイベントもきちんと走っているので化け物としか思えない。
 尚、他2人は大抵彼女といることが多い。もちろん日によってはクラスのグループで食べている日もあれば、特に恵太は手短にお昼を済ませ外でクラスメイトと体を動かすことも多いと前に聞いた。
 食堂を見渡すと、そう遠くない席に京ちゃんの姿があった。隣に座るのが佐伯唯だ。京ちゃんと付き合ったのは高校に入ってだが、僕たち4人の他に同中から来た女子なので昔から顔馴染みがある。

 「京もまさか唯ちゃんとくっつくとはねえ、彼女は確か看護の専門に行くって言ってたっけ。」
 「僕が京ちゃん達のほう見ているのよく気づいたね。」
 「なんとなくだよ、唯ちゃん小柄で可愛いもんなぁ、馨もちょっと見ていたくなるクチ?」
 「いや僕は、別に佐伯はそういう感じで見たことはないかな・・・。」
 「ふーん、俺は中学時代とか結構唯ちゃん可愛いと思ってたんだよなぁ、まぁ今更言ったところでだけど。」
 よもぎは乾いた自嘲とともに自動販売機で買ったバナナオレを飲み込む。

 お互い4限が長引いたので、昼休みの時間はあっという間に過ぎてしまった。
 よもぎと別れを告げ、僕は教室に戻って次の授業の準備をする。自分の準備に加え、今週は黒板の清掃当番なので黒板消しやらチョーク類を整頓しなければならない。
 窓の外を見ると、昼休みギリギリまで校庭で遊んでいる男子生徒たちがまばらに見える。校舎が高台に建っているので、校庭とはかなり高低差があり人の姿は豆のようだが、その豆がほとんど赤や緑の鮮やかなジャージを纏っている。僕ら3年生の青色の豆粒は数名しか確認できない。

 それにしても、よもぎが佐伯にそんな想いを抱いていた過去があるとはさっぱり知らなかった。確かに佐伯のくりくりとした瞳は男子生徒を魅了するものがあるが、同じクラスになった事がないからだろうか。彼女と深く関りを持ったこともないし、持とうと考えたこともなかった。
 僕自身彼女がいたことがないわけではない。中学時代にテニス部の後輩と付き合った機会があるが、数ヶ月で自然消滅してしまった。またそのうち彼女が欲しいとは思うが、僕の場合、確実に今ではない。

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 放課後のサイゼ勉強会は相も変わらず続いていた。
 ただ、毎回全員が揃う機会は年末が近づくにつれ段々減り始めていた。理由も様々で、予備校の補習を受けに行ったり、学校で進路決定の最終面談があったり、年明けからの大学の部活見学参加に備えて練習量を増やしたり、はたまた他の相手と勉強会をしたり。
 昔は全員同じ日に同じ予定があって、4人が集まって同じことをしてきたけれど、高3にもなってもずっと同じ時間がやってくるわけではない。
 受験だけ取っても、人によって受ける学校や学部が異なるので試験内容が違えば、受験日だって違う。恵太に至ってはもう受験が終わっているわけだ。
 大学生になれば、授業の時間も曜日も異なるし、バイトやサークルだって増えてくる。よもぎは第一志望に合格すれば仙台に行ってしまうらしいから、そもそも集まる機会自体を持てるかすら分からない。


 今日のサイゼは京ちゃんと僕の2人だ。
 4人の中でも僕は、良いのか悪いのか比較的出席率の高いほうだった。
 もう今更語ることではないが、どうしてもついつい妄想の世界に浸ってしまうので1人で勉強というものがどうしても向いていない。4人揃わなくとも、誰か1人がサイゼの雑音の海の中にいてくれるだけでも有難い。

 4人揃っていれば自動的にMサイズピザを選ぶのだが、残念なことに4人で割らないとピザを選択する理由があまりない。3人以下の時は価格に拘りすぎず、それぞれ自由にフードメニューを選ぶことが多い。
 今日は京ちゃんと僕が第一志望に設定している山梨学園大学の過去問を一通り解いた。お互いの答案の丸付け合いを行い、空腹も良い頃合いになってきたのでメニューを開く。
 数日来ていなかったうちに、メニューが赤や緑に彩られたクリスマスの期間限定に変わっていた。

 「もうクリスマスなんて早いね。クリスマスも終わって、あっという間に年末年始、お正月を超えたらあっという間に共通テストにが来るんだろうなぁ。」
 「現実を見たくないな・・・、楽しい行事が目白押しの季節がこんなに憂鬱になってしまうとは・・・。」
 「京ちゃんは、クリスマスは佐伯と?」
 「それがあっちも専門学校の事前課題やら忙しいみたいでね。受験が終わればいっぱい遊べるし、無理に今年の行事の予定を組む必要もないんじゃないかなって思って特に何もしないつもり。勉強一色の予定だよ。」
 「1日ぐらい息抜きしても京ちゃんなら問題ないと思うけどねぇ。」
 「いやいや、B判だって確実に受かるか分からないからね。唯はいつでも会えるけど、受験はもうその日っきりだし。」

 京ちゃんは山梨学園大学の農学部を第一志望に設定している。僕は複数の学部を受験すると受験料がお得になるという制度を利用して同大学の経済学部と国際学部と文学部をとりあえず虱潰しに受験する予定だが、どれもこれも模試の結果はC判定とD判定を行き来するような具合でパッとしない。第一志望というよりは、最早チャレンジ校として捉え、市内のもう一つ下のランクの私立文系大学に受かれば万々歳という心構えに変化しつつある。
 模試を受験する度に欲しいBという文字を手に入れている目の前の男は、僕から見ればクリスマスに彼女と遊ぶぐらいどうってこと無いじゃないかと思ってしまうが、そこは個人の意思の問題なので他人が口出しするところではない。

 「あとそろそろインフルエンザも流行りだしたしねー、クリスマスで人混みに行ってインフル貰うと流石にきついしね。」
 京ちゃんは入院するほどまではいかないものの微妙に体が弱く、おたふくやインフルエンザなどの感染症をほぼフルコンプしている。

 今日は過去問を一通り解いて頭を酷使したからか、なんだか双方甘いものを欲していた。京ちゃんはイタリアンプリン、僕はメリンガータというメレンゲのアイスケーキをチョイスした。


 「えー、ですのでー、年末年始は積雪による事故なども増えますのでー、安全には特に注意しー、羽目を外しすぎないように。えー、年が明けると3学期となりますがー、1年生は2年0学期、2年生は3年0学期、えー、3年は受験へのラストスパートとなりますのでー、勉学もたるむことなくー、えー、2学期のまとめなどはー、冬休みのうちに済ますようにー。えー、では以上です。」
 校長という職は各学校に1人、つまり学校の数だけ様々な人間がいるはずなのに、なぜ世の校長像というのはどこも同じようなものになるのだろうか。

 校長の話や、部活動の表彰などを一通り行い、無事に終業式が終わった。
ありがたい演説が生徒だけでなく教師にも効いたのか、その後のホームルームは手短に終了し、3-Cの生徒は三々五々散っていった。
 終業式は午前で終わるので、僕は愛するオムレツパンで2学期を〆ようと学食に向かった。

 「わ!雪降ってきたよ~ホワイトクリスマスじゃん!」
 学食の窓際のテーブルで、女子集団が歓声を上げていた。声につられて、僕も窓の外に目をやった。
 垂直に落下するみぞれ混じりの雪の中に、軽い雪がふわりふわりと舞っている。この具合だと、明日の朝にはほどよく積もっているだろうか。山奥のこの地で雪が降るのは決して珍しい事ではないが、今年は暖冬だったためか初雪がこの時期まで遅れこんでいた。
 しかも終業式の今日は12月24日のクリスマスイブということで盛り上がるのも無理はない。厳密に言うとホワイトクリスマスイブと呼ぶのが正しい気がするが、女子高生にそういったことを求めてはならない。


 あまりにも寒いので、オムレツパンの他に自動販売機でコーンスープを調達した。さて、午後はどうしようか。
 勉強はするとして、問題は場所とメンツだ。そもそも学校を出るのが寒いので図書室に籠るも良し、いつも通りサイゼに誰かを呼んでも良し、しかし終業式の後ということでサイゼリヤは北高生で混雑している可能性があるのを考えるとたまには予備校でチューターに質問をしながら勉強を進めるも良しかもしれない。

 久々に位置情報共有アプリの存在を思い出し、アイスのアイコンをタップして確認してみる。
 よもぎは一時帰宅しているのか家に、恵太はイオンにアイコンが光っている。愛すべき我らがサイゼを確認してみると、京ちゃんのアイコンが表示されていた。昼食を済ませてそのまま居座り勉強をしようという算段だろう。今日という日に新たに席を確保しようとするのは億劫だが、既に席についている人のテーブルに滑り込めたら好都合だ。
 京ちゃんに走るウサギのスタンプを1つ送りつけ、コートを厳重に着込みながら駐輪場へ向かう。青フレームの安自転車には、うっすらと積雪しはじめていた。

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 店の駐輪場には見慣れたシールの貼ってある黒フレームの自転車があった。念の為、窓の外から彼の姿を見てみたが特にクラスメイトや誰かと食事をしに来ている様子ではなかった。

 「なんか通知が来てたからどうせこっちまで来るかと思ったよ。馨はもう昼食べたん?」
 「あぁ、学食で食べた。」
 雪で少ししっとりとしているマフラーを外して、とりあえずの単品ドリンクバーを注文する。
 ふと向かいのソファを見てみると、京ちゃんの黒いリュックの横に、淡いピンクの小さな小さな紙袋がちょこん並んでいた。

 「お?何だそれはぁ~?いつの間に準備したのかぁ~~?」
 こんな日にわざわざ誰宛かなんて聞くまでもないので、たまにはちょっといじってみると、目の前の男は一気に耳を真っ赤にして弁明し始めた。
 「いや、そのさ・・・クリスマスは特に遊んだりしないで済まそうって僕から言ったけど、高校最後のクリスマスだし、なんか流石に申し訳ないことしたかなって思って。今日の夜に唯の家にサプライズで渡しに行こうかと思って、昨日買ってきた。」

 どうやら話によれば雪の結晶が揺れるデザインのイヤリングを買ったらしい。買うまでピアスとイヤリングの違いを知らなかったというところがいかにも京ちゃんらしい。
 渡すのに緊張するので少し手前までついてきてほしいと頼まれたが、どっちみち京ちゃんとは団地に入った先まで帰路が同じなので快諾した。

 今日はちょっと豪華にいきたいところだが、家でクリスマスの夕食が待っていることを考えて、チーズパンを2人で分けて食べた。そして、普段よりちょっと早めに会計を済ませ、店を後にする。


 贈り物をくれる相手も、送る相手もいない僕だけれど、相手を思って何かを選ぶというのはとても尊い感情だなと思う。
 浮ついた人間や街を見て鬱陶しく感じる時もあるけれど、いろんな人にこうやって幸せな時間が降り注ぐクリスマスは嫌いじゃない。
 寒さの中で、きっと寒さだけではない理由で耳を赤らめる親友の姿を見て、なんだか僕も少し高揚した気分になり、駐輪場の前で「このリア充め!」と軽くタックルしておいた。


 雪は一定に降り続け、順調に積もり始めていた。車道には轍ができはじめていたので、僕らはなるべくそれに沿って自転車を走らせたが、明日の朝には水が一度凍りツルツルになってしまうだろう。
 佐伯の家は、中学校の学区域の中でも僕らの団地とは離れた住宅街にある。いまにも崩れてしまいそうな昔ながらの一軒家もあれば、薄い水色やクリーム色が施された小綺麗な住宅も入り交ざっている不思議な雰囲気の地区だ。

 佐伯の家のある大通りまで出ると、この寒い中、人が2人立っているのが見えた。まだ遠くなので良く見えないがちょうど佐伯の家付近だ。

 「は・・・?」
 急に自転車をブレーキさせ、声を上げたのは京ちゃんだった。僕も突然のことに驚きながらもブレーキをかけ、自分の視界で何が起きているのかを理解したのは数秒後にやっと目のピントがあってからのことだった。

 佐伯家の、ベージュ色の壁の玄関の前に立って談笑していたのは、紛れもない、くりくりとした瞳の小柄な女子高生と、前髪をセンター分けにした、長身の男子高校生であった。

 「おい、どういうことだよ。」
 僕が状況を飲み込めずに固まっていると、京ちゃんは家の前まで歩みを進め、二人に声を掛けた。
 当人たちは突然の来訪者に驚きの色を隠せない様子だ。

 「これは・・・そのなんというか・・・唯ちゃんと会ったのはほんと偶然で・・・。」
 「私が木村君を誘ったの。」
 「何で唯がよもぎを誘うんだよ。」
 「だってせっかくの高校最後のクリスマスなのに、京ちゃんが何も誘ってくれなかったからじゃん!!今日だって何もしないって言ってたのにこうやって勝手に家まで来るし、京ちゃんは自分勝手すぎるんだよ!」
 「だからって言って他の男誘う唯もおかしくないか?誘われて遊ぶよもぎも訳わからんし。」

 一通り彼氏と彼女が言い合いをしたのち、全員が黙ってしまった。
 全員、あまりにも突然の事で状況が掴めていないのだ。プレゼントを彼女に渡しに行ったら他の男とのデート現場を目撃してしまった男、彼氏が構ってくれないので半分やけくそになり男友達に声を掛けたら彼氏にバレた女、前からちょっと気になっていた女子に誘われ遊んでいたら彼氏が現れた男、そして、ただプレゼントの付き添いに来ただけなのに親友たちの修羅場を少し遠くから見させられている僕。

 「ごめん。後は俺と唯で話すわ。馨、ここまで来てくれたのになんかゴメンね。」
 沈黙を切り裂いたのは京ちゃんだった。しかし、もう1人の男への言及は、無かった。

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 気付くと僕は自分の家に戻り夕食をとっていた。せっかく母親がパート先のスーパーからたくさんクリスマスメニューを買ってきてくれて、卓上にはチキンやサラダなど彩りのあるメニューが並ぶがひどく味を感じない。

 「大寒波の影響により降雪は26日まで続く模様とみられ、関東甲信越の一部地域では公共交通機関などへの影響が懸念されています。特に明け方は道が凍り転倒の可能性が高まりますので、通勤・通学などの皆様におかれましては十分にご注意ください。」
 テレビの中の天気予報士が青色や白色に染まった関東甲信越の地図を指さしながら解説する。

 食卓の奥にある窓ガラスを眺めると、闇の中を雪は未だに降り続けていた。むしろ、数時間前よりさらに増えてきたかもしれない。

 数時間前、僕とよもぎは二人で一緒に帰った。僕が自転車で、奴は徒歩だったので僕が自転車を引いて共に歩いたが、特に会話は交わすことなく団地入口で解散したと思う。
 今まで4人の中で喧嘩することなんてしょっちゅうだったし、小学校高学年や中学生の頃に誰かと誰かが口をきかない、なんていくらでもあった。でも数日経てば、いつの間にか元通りになっていた。高校生になってからみんな少しは大人になったのか、喧嘩することはめっきり減った。だからこそ、仲直りの仕方も忘れてしまったようだ。

 今回悪いのはどう考えてもよもぎだ。でも誘ったのは佐伯と言っていたし、京ちゃんと佐伯の間に何があったかは知らないがそりゃあ誰だってクリスマスぐらいは恋人と過ごしたいと思うのが自然だろうとも思う。
 よもぎへの怒り、また4人で仲良く顔を合わせられるのか分からない不安、そして自分の力ではどうすることもできないやるせなさ。色んな感情が僕の中で混濁して今はなにも受け付けられないし、事件が起きてから今までの記憶も曖昧だ。
 なんだか雪が降り始めてから、急に世界がおかしくなってしまったような気すらする。
 そういえば、佐伯のもとに雪の結晶のイヤリングは渡されたのだろうか。


 カイロの入ったダウンのポッケに両手を突っ込みながら、枯葉と雪の積もった境内をざくざくと進む。
 気付けば師走は風のように過ぎ去り、年が変わるまであと1時間を切っていた。

 団地の裏には大きなお寺が構えているので、そこに鐘をつきにいくのが毎年の家族の恒例となっている。今年は大学の友人と年越しパーティーをするらしい姉を除いた父と母とお寺に向かった。参拝者に振舞われる甘酒を寒い雪の中ですするのはなかなか風情があってお気に入りなので、少々心を弾ませながら境内の奥を目指す。

 家族の恒例でもあると同時に、僕ら4人の恒例でもある。だが、クリスマスイブの例の件から僕たちは一度も集合していない。流石によもぎと京ちゃんがどういう状態であるかを無視して集合をかけるほど僕もポンコツではない。
 今日は果たして全員来るのだろうか。僕は何も悪くないはずなのに、4人が集まったら何を話せばいいのかを想像して、勝手にドギマギしている自分がいる。

 「おっ!馨いた!」
 声のほうを振り返ると、暖かそうなマフラーに巻かれた図体のいいニキビ面が、白い息を弾ませながらこちらに向かって大きく手を振っていた。
 「あっ、おじさんおばさん、お久しぶりです!」
 「あら、恵太くん?お久しぶりねぇ~そういえば信体大に推薦決まったんですって?うちの馨と違ってきちんと受験の準備をしてきた賜物ねぇ!」
 母親の謙遜にダメージを食らいながらも、父母とは行動を別にし恵太とぶらぶら歩くことになった。

 「そういえばこの間なんか色々あったらしいな。晴香から聞いたよ。」
 突然登場した恵太の彼女の名前に引っ掛かりを感じたが、そういえば右京と佐伯唯と山下晴香は全員3-Aのクラスメイトだ。さらに僕の記憶が正しければ佐伯と山下は共に吹奏楽部であった気がする。

 「今のところ一番関わってないの俺だからさ、外野から何かできることないかな~って思うんだけど、なかなか思い浮かばないんだよね。」
 「僕もまぁ立ち会ってただけで関りがあるかと言われるとほぼ無い人間だから、なんか手伝えることがあったらいつでもやるよ。」
 昔からいつもそうだった。恵太本人が絡んでいる場合は別として、僕らの誰か3人が喧嘩をしたときにサッと声を掛けてくれたり、遊びに誘って関係性を元通りにしてくれたりしたのはいつも恵太のちょっとした言葉や行動だった。色々と不器用な男ではあるが、熱くて優しいハートが彼の魅力なんだろうなぁ、とニキビだらけの横顔を眺めながら思う。
 それに引き換え僕は、4人が集合したらどんな風に振舞うかを考えて一人でぐるぐるとドツボにはまっていたのがなんだか恥ずかしくなってしまった。

 「とりあえず2人が鐘つきに来てるのかだけ見てみるか。」
 何かしなければという思いを行動に移して話を繋げるべく、僕はダウンのポケットからスマートフォンを出してアイスのアイコンをタップする。
 「ねぇ、見て!恵太!」
 スマホの画面には、境内の少し外れのところに2人のアイコンが重なっていた。
 「どっち向きだ?これ。」
 「多分方角的に神輿の倉庫があるあたりだと思う。ちょっと行ってみよう。」

 恵太と僕は小走りで倉庫へ向かった。
 なぜ2人で会っているのだろうか。もう実はどこかで仲直りして解決していたのだろうか。それとも・・・。
 もう0時も近くに迫ってきているので、場合によっては、今年は除夜の鐘を突けないかもしれない。でも今は、そんなことはどうでもよかった。

 倉庫の横では、眼を見張る光景が広がっていた。
 京ちゃんがただひたすらに、よもぎの事を殴っているのだ。
 「オイッ!何してんだよお前ら!」
 真っ先に2人を止めに入ったのは恵太だった。恵太に力ずくで止められた京ちゃんは顔を真っ赤にして泣き腫らしていた。
 僕は地面に座っていたよもぎの方へ駆け寄った。大きなけがはないにせよ、顔の周りがあざになっていたり、ところどころ内出血したりしている部分もありそうだ。
 「こんなド年末に何してるんだよ・・・。」
 あまりの痛まし光景に思わず声を漏らしてしまった。

 「別れたんだ。唯と。」
 京ちゃんが嗚咽と共に、ぽつりぽつりと口を開き始めた。
 「もちろんよもぎの件だけじゃないって、今までの色々な積み重ねがそうさせたって頭では分かっているけど、けど、それでもコイツの姿を見たらどうしてもどうしても許せなくて・・・・。」
 佐伯は、京ちゃんの初めての彼女だった。照れ屋で臆病な右京だけど、そんな京ちゃんとも割と仲良くやっていたように見えた。この様子だと、クリスマスから今日まで1度も会っていなかったのだろう。そして、先ほどの僕たちのように偶然この場で遭遇したのだろう。

 よもぎは頑なに口を開こうとしなかった。殴られていた時も、抵抗する様子もなくただただ拳を受け入れていた。自分がしたことへの罪を認めて、京ちゃんが落ち着くまですべてを受け止めようという態度なのだろう。

 もう本当にどうしたら良いのか分からなかった。4人でまた仲良くやるには何かしらに立ち向かわなければならないのだと思うが、許されるなら今すぐこの重々しい雰囲気から逃げ出してしまいたかった。

 「ちょっとここじゃさみぃしな、公園行こうぜ。あそこなら屋根のあるベンチがあるし。」
 倉庫の裏は僕たちの住む団地だ。恵太の提案により、恵太と京ちゃん、僕とよもぎの二手に分かれ、コンビニで何か食べるものと、お寺の甘酒をそれぞれ調達することにした。

 よもぎと境内の中央に向かう。明るい所で見たら少しぎょっとするぐらいの顔のケガではあるが、境内の照明程度の暗がりであれば何とかごまかしが利く。
 2人で歩いている途中で、団地の方角から複数の歓声が聞こえてきた。おそらく年が明けたのだろう。ダウンのポッケにもたくさんの通知が届いていることがバイブで肌に伝わる。おおかたクラスラインであけおめラインがラッシュしているといった具合だ。

 お寺のおばさんにやや怪訝な顔をされながらも、無事に甘酒を4カップ手に入れた。
 1人ずつ両手に甘酒を持ち、再び境内のはずれを通って裏門から団地の公園を目指す。

 「ずっとどこかで謝りたかったんだ。LINEもずっと既読つけてくれなくて。誘ってきたのは唯ちゃんとは言え、ちょっとぐらい良いかなって思って誘いに乗った俺がバカだった。もう謝ることしかできないけど、それでも謝りたかったんだ。まさか今日は会うと思っていなくてお寺に来たんだ。そしたら、そしたら・・・・・・。」
 今日会ってから一言も発していなかったよもぎが急に口を開いた。そして、大粒の涙をぽろぽろと溢して地面にうずくまった。
 「ほら、甘酒がこぼれるぞ。一回台に置こう?」
 境内と団地を区切る柵に甘酒を置き、よもぎが一通り泣き切るまで柵に腰かけて隣で待っていた。よもぎが泣くなんていつぶりに見ただろう。こういうときに、僕が何かを言っても良くも悪くもならないことは自分がよく知っているので、ただただ黙って背中をさすってやった。
 彼はずっと泣きたかったのだろう。何かとプライドだけは高い男なので、自分が泣くことを自分で抑えていたのだろう。1人でも泣かないし、大人数の中でもほとんど泣かない彼には、隣に誰かがいるのがちょうど良いのだろう。恵太がそこまで想定していたのかは分からないが、顔を見るだけで一触即発だった2人を落ち着けて冷静にさせるには、僕らがついて二手にいったん別れるのが最善の選択としか言いようがない。

 「ありがと。もう大丈夫。」
 よもぎが、少し冷めた甘酒を手に取ってスッと立ち上がった。
 「よし、行こか。」


 団地の公園に到着すると、既に2人がベンチで肉まんをパクついていた。
 「ごめーん、待った?」
 「いやさっき着いたところ。馨たちも甘酒ありがと。」

 コンビニ組の買ったビニール袋を覗いてみると、ピザまんが2つ入っていた。僕とよもぎの好きなピザまんだ。
 結局その後はよもぎと京ちゃんの直接の会話や謝罪のやりとりといったものは無かったものの、寒空の下4人で今年の抱負だの、年末のお笑い番組の感想を話したりして解散した。

 自分の部屋に戻り、窓から5号棟の4階の部屋を眺めると、1つだけぽつりと灯りが点いていた。
 僕たちはもう小学生じゃあるまいし、「ハイ、今ここでごめんなさいして仲直り!」で解決するほど簡単な話ではない。こういったことに関しては恵太にお任せするのがベストだし、今日恵太が取ってくれた行動も彼なりのベストだと思う。あとは時間の解決とか、そういった類のものを信じるしかないだろう、なんてことを考えながら布団で眠りについた。


 「えー、3学期となりますが、受験や来年度への準備として、えー、しっかりと実力をつけー、次のステップに進めるよう、えー、一層努力していきましょう。」

 年越しから一週間弱が経ち、あっという間に始業式を迎えてしまった。
 3年の3学期は基本的に自由登校となっているため、始業式だけ出席しすぐ下校していく青い上履きを横目に、僕は図書室の机でノートを開いていた。

 家で勉強ができるとはとても思わないので、冬休み期間は毎日サイゼリヤに通っていた。誰かがふっと来てくれるかな、なんて淡い期待もあったが、特に誰が来ることもなく日々は過ぎ去った。他人がいなくともファミレスの雑音があるだけでまだましと思って通ったが、流石に毎日通うのは食費がかさむのと、店員に顔を覚えられていそうで気まずくなってきてしまったので、学校が始まってからは毎日図書室通いの予定だ。

 「あ、いたいた、馨。」
大きくそびえる白い山を眺めながらの妄想の世界から僕を引き戻したのは、またしても恵太だった。

 「僕は、今日は最終下校までここにいるよ。お弁当も持ってきちゃったし。」
 「そうじゃなくてさ。聞いた?京がインフルだって。」
 「あらマジか。知らなかったよ。」
 「右京のヤツ毎年インフルやってるからなぁ、流石にワクチン打っているとは思うけど、共通テストも来週だろ?ちょっと心配だよなぁ。」
 「とりあえず年明けのメンツは大丈夫?よもぎとか、恵太も。僕は特に風邪っぽい症状は無いよ。」
 「俺もうつってはなさそう。でもいよいよ受験シーズンにもなるし、ちょっと心配で声かけに来たんよ。まぁ何とも無いなら良かった。ここからは体力勝負になるからな、よく食べてよく寝てカラダ調整しろよな。」
 このニキビ面は一般受験にも実技の試験があるとでも思っているのだろうか。まぁどちらにせよ身体が資本であることは間違いないので、彼の言葉をありがたく受け取っておく。

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 結局その日からあっという間に受験一発目となる共通テストの日を迎えた。
 恐ろしいことに全体的に難化・例年と傾向が大きく異なるという大混乱に巻き込まれ、結果として僕と右京は山梨学園大学の共通テスト利用を落としてしまった。よもぎは何とかボーダーラインを突破したそうで無事に2次試験への準備を進めていた。
 恵太は本格的に大学の部活動に見学として参加し、4人の合う時間というのはますます無くなっていった。4人のうち何人かが偶然高校や団地の手前で会った、なんてことは度々あったが、相変わらずよもぎと右京が2人で会ったという話を聞くことはなかった。

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 「いやぁ、それにしても京ちゃん本当にインフル明けが共通テストに間に合って良かったね。」
 「日数的にだいぶギリギリだったけどね。布団で単語帳眺めるぐらいしかできなかったから、実力を出し切れたかと言われるとかなり怪しいけれど、まぁ受験の場慣れとして受けられただけ、ね。」
 「まさか今年に限ってこんなに傾向が変わるなんて信じられないよなぁ~、テスト利用で山学合格しておきたかった・・・。」
 「とりあえず一般入試の傾向も合わせて変わっていないことを祈るばかりだな。」

 月日は進んで気付けば今日は2月1日。僕はサイゼリヤのテーブル席で京ちゃんとスマホをつつきながらドリンクバーのジュースをすする。2つ並んだスマートフォンの受験生用ポータルサイトには「不合格」の文字が表示されていた。

 窓の外を眺めると、天気こそ良いものの冷たい雪がちらりちらりと舞っていた。
 あんなに不安というか、嫌がっていた受験も一度始まってしまえばどうってことなかった。だけど雪は違った。一度降り始めてしまえばいつもは気に留めなくなり日常に溶け込んでしまうはずなのに、今年の雪はどうも冷たくて、白い。
 軽くて小さな雪が僕の景色の邪魔をするし、降り積もって重くなった塊は僕の心にずしりと積もる。

 不合格の字をずっと眺めていても何もいいことは無いので、×を押して画面を閉じた。
 実は、僕は滑り止めの大学に合格している。共通テスト利用しか受けるつもりのなかった、オープンキャンパスにも行っていない、年末ごろにやっと決めた2つ隣の市の大学だ。丁度皆と集まらなくなったタイミングと重なってなかなか言い出せずにここまできてしまった。もちろん友人に出願校を教える義務なんてないし、目の前の彼も僕が知らないだけで何かしらの滑り止めは受験しているかもしれない。でも十数年来の友人にここまで気負ってしまう自分がいるのが、自分でもよく分からなかった。

 「とりあえず一般入試もあと3日だしな。もうあとはやれることやり尽くして祈るしかないよなぁ。俺も馨と一緒に大学生活やりたいし。お互いあと少し頑張ろうな。」

 2人とも受験日の朝までギチギチに勉強するような性分ではなかった。最終調整に向けて少しずつペースを緩ませている京ちゃんの様子を見ると、実は彼もどこかには合格しているのかもしれない。

 目先に控えた一般受験日の集合時間を決め、珍しく食事を注文せず単品ドリンクバー300円を支払い僕らは店を後にした。2つ並んだ青と黒のフレームの安自転車には、薄氷が張り付いて鮮やかな夕陽を屈折し、きらきらとした光を纏っていた。

 迎えた2月4日の朝。大月駅から電車で大学まで行こうと思っていたが、京ちゃんのおばさんが車で送ってくれるというので甘えさせてもらった。
 その朝も、さくさくした霜や草木を覆う氷が眩い光を放つ朝だった。もちろん受験への緊張はしていたが、半年、いや1年前から早く終われと思っていた日をやっと迎えることができたのだ。終わってほしいと思いつつも、どこかでこの日を期待していた自分がいたのかもしれない。
 文化祭の前夜祭の日のような、始まってしまう喜び、始まってしまえば終わるしかない寂しさ、そんな刹那的な感情をたくさん抱えて、なんだか自分が自分でないような、ふわふわとした時間を車で走り抜けた。
 車内では、大学生になったら車の免許を取りたいな、マニュアルとオートマどっちがいいのかな、折角なら4人で夏休みに免許合宿もいいかもね、よもぎが合格したら皆で仙台の免許合宿に行けばいいかもね、なんて他愛のない話に花を咲かせ続けた。

 受験会場は受験学部によって分かれていたので別々の棟で臨んだ。京ちゃんは農学部のみだが、僕は経済、国際、文学と重ねて受験するので科目がいくつか多い。
 難易度としては、難化した科目もあるし、易化した科目もあるなぁ、というところだろうか。手ごたえという手ごたえはさっぱり掴めていないが、ケアレスミスをしていなければ解ける問題は確実に抑えたはずだ。

 大学を後にして携帯を手に取ると、「[恵太]:受験頑張れよー!(^O^)」という通知が届いていた。朝からすっかり携帯を見ていなかった事に昼過ぎになってやっと気付いた。落ち着いていると自分で思いながらも、かなりの緊張状態だったのだろうか。
 青く高い空に向けて大きく肺の息を流し、スマホに「ありがと。やっと終わった」というメッセージとスタンプを送ると、すぐさま既読3という表示がついた。

 結局、年越しの件から一度も4人で集まっていない。こんなに近くに住んでいるのに、1か月以上も会っていないのは初めてかもしれない。よもぎの2次試験が最後になると思うから、それが終わったら思いっきり遊びたい。まずは4人でサイゼだ。



 自分の試験が終わってからはだらしなく緩んだ生活を満喫した。夜遅くまでPCゲームに興じ、日が出たら布団に入り、午後のしょうもない昼ドラが流れる時間に目覚めた。
 高校2年まで長期休暇では当たり前だったような生活をやっと取り戻すことができて最高の日々だ。まだ試験を控えるよもぎを誘うのは忍びなかったので、恵太や京ちゃんとだらだらした時間を満喫した。
 今日も今日とて、3人で団地の公園で暖かな日差しの中でバスケをして楽しんでいた。

 「そういや山学って結果発表いつだっけ?」
 「明日の夕方5時。午前に発表してくれれば良いのに夕方なんて変だよねぇ。」
 「夕方なら俺暇だぞ、馨と京と一緒に結果発表見る?」
 「それが、俺明日ちょっと担任に呼ばれてるんよね。時間的に学校で結果発表かな。」
 「そかー。じゃあ馨の発表だけ俺見守るとするわ。」
 「恵太、僕が1人で結果も見られないぐらいメンタルよわよわだと思ってんの?」
 「ちげ~よ!せっかくなら一緒に合格の喜びを分かち合いたいじゃんかぁ!」

 たった1週間弱の堕落生活だけで、受験時代の緊張はどこかへ飛んでしまい、まだ結果が確定していないのにすっかり合格気分だ。手元に転がっていたバスケットボールで目の前のニキビ面をグリグリして遊んでいたら、あっという間に陽は暮れてしまった。

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 今日は僕の家に集合にした。母も姉も出ているので落ち着いて結果を見るにはもってこいだ。
 スマートフォンに自分の受験番号を打ち込む。パスワードは生年月日の8桁。
 5時ぴったりはサイトが混みあってアクセスにかなり時間がかかると前回学んだので、長針が1を少し過ぎたころに[確認する]ボタンをゆっくりと押す。

[合格です。おめでとうございます。]

 安っぽい桜のイラストに囲まれた合格の文字をゆっくり眺めて、思わずその画面を親指と人差し指で馬鹿みたいに拡大してしまった。スマホから顔を上げると、目の前のニキビ面が犬のような笑顔をほころばせてこちらを見つめている。
 言葉はいらなかった。大きく手を振りかぶって、強く、強くハイタッチをした。手がヒリヒリした。最初に見た文学部のみ合格で、残りの経済学部と国際学部はばっちりの不合格だったが、そんなことはどうでもいい。こんなに嬉しいのか、合格って。

 「いやー本当にめでたい!よく頑張ったなぁ馨!俺はとっても嬉しいよ!」
 僕が自分の中でじわじわと嬉しさを実感してしまうので、恵太は僕の目の前で喜びをたくさん外に放ってくれる。恵太に言われるがままに、家族LINEに連絡をしたり、担任に電話をかけたりした。
 4人のグループラインにも連絡を入れたが、京ちゃんからはすぐ連絡が無かった。学校で合格確認をしているから、先生やクラスメイトへの報告で色々忙しいのかもしれない。

 LINEで連絡は入れているものの、できれば直接会って京ちゃんに報告したい。まさかD判定やC判定で半ば諦めていた山梨学園大学に合格できるなんて。春からも京ちゃんと大学生活を送れるなんて。恵太は帰ってしまったので、家を出て4号棟と5号棟の間のベンチに腰掛ける。2つの棟は駐輪場が隣り合っているので、ここにいればそのうち京ちゃんが帰ってくるだろう。

 数分座っていると、予想通り黒いフレームの自転車が見えた。
 「京ちゃーん!俺受かったよ!」

 自転車の乗り主からの返事は無かった。
 「京ちゃん!どうしたの?」
 ベンチの目の前で自転車を止めた男は、泣いていた。

 「ごめんな、馨。落ちちゃたよ、俺。」
 京ちゃんはベンチに力なく座り込んだ。

 落ちた?京ちゃんが?最後の模試でA判定だった京ちゃんが?僕が受かって、京ちゃんが山学に落ちた?
 あまりの衝撃に、先ほどまでの自分がした態度がどれだけの愚行であったかという事に気付くのに、恐ろしく時間がかかった。自分の合格があまりにも夢心地で、京ちゃんが落ちているなんて文字通り微塵も考えていなかった。

 僕だけ盛り上がってごめん、僕が合格したのはきっとまぐれだよ、元気出して、いや今は元気出さなくていいよ、まだ後期試験があるよ、補欠の電話が来るかもしれない、何で京ちゃんが、何かの間違いかもしれない、一緒の大学に行きたいよ、別々の大学でも仲良くしてね。
 もうどれから言葉にしたらいいのか分からなかった。


 どうしたらいいか分からなくて、どうしようもなくて、僕は思わず、ベンチに座る京ちゃんを隣から、息が苦しくなるぐらい強く抱きしめた。

 「やめろよ。俺そういう趣味無いから。」
 京ちゃんが鼻水交じりの声で言った。
 僕だってそんな趣味は無い。ただ、そんな事を口に出す余裕はないくらい、ぐっちゃぐちゃに僕は泣いていた。

 何かを言いたいのに、何も出てこなかった。こういう時何か良い言葉を添えられたらいいんだけどな。それほどの器のない僕は、何か出そうとするほど、無力な嗚咽に全て変わり、強く強く彼の体温を抱き、そして彼の胸でひたすら泣いた。

 「ありがと。もう分かったからさ。」
 京ちゃんが僕の頭をぽんと叩きそっと身体を離した。

 「今日は帰るね。馨、合格おめでとう。またね。」
 京ちゃんが泣いていたはずなのに、結局僕がズビズビに泣いていた。自分の不甲斐なさにまた泣いてしまいそうだったが、京ちゃんが帰るというので僕も涙を拭って何とかベンチを後にした。


 花粉が飛び始めてどうも鼻がむずがゆい。しまった。ティッシュを教室に置いてきてしまった。
 なかなか安定しない錆びたパイプ椅子に座りながらステージの上に目をやると、生徒代表のよもぎが証書を受け取る瞬間だった。毎年一番成績の良い大学に合格した生徒が担当するこの大仕事に、僕の親友が選ばれた。

 時は流れ、僕らはあっという間に卒業式の日を迎えていた。
 僕の合格の数日後、よもぎも無事に東北大学の合格を勝ち取った。彼の合格が決まってからは、新居探しや引っ越しの準備などに追われているようでなかなかゆっくり話す機会が取れなかったのもあって、なんだか急に遠くに行ってしまったような感覚だ。


 式が終わった後も、なんだか帰るのが惜しくて図書室に寄ってみた。
「京ちゃん、後期試験今日なんだって?」
 「おわ、恵太か。」
 「本当に最後まで図書室好きだよな。俺、馨に声かける用が無い限り図書室とか来る機会絶対無いわ。」
 「山学の後期は今日みたいね。卒業式にチラホラ欠席がいたけどおそらくほとんど山学組かな。」
 「京ちゃん、なんとかなるといいんだけどなぁ。」
 珍しく、恵太が窓の外の大きな山々を物憂げに見つめていた。


 よもぎの合格と入れ替わりに京ちゃんが勉強に専念するようになり、4人で集まる時間は今になっても実現されないままであった。よもぎの仙台行きもいよいよ本格的に決まり、どうせいつでも、いつか、そう考えていた日々も指折り数えるほどになってきた。

 「4人で写真でも撮りたかったんだよなぁ、てか俺の親が折角だから3人だけでも撮ってこいってうるさくてさ。馨、よもぎどこにいるか知ってたりする?俺この後D組のクラス会行っちゃうんよ。」
 「さぁ、学校にまだいるとは思うけど・・・電話してみる?」

 一度目は出なかったが、ほどなくして折り返しの着信音が鳴った。
 「あ、よもぎ?まだ学校いる?3人で写真撮ろうよ。門がいいかなぁ、恵太もう出ちゃうんだって。そうそう。じゃあ門で集合ね、よろしく。」

 携帯をポッケにしまい、最後に図書室を見渡して、恵太と共に校門へ向かった。
 高校を今日で卒業してしまうなんて、まだ実感がわかない。また明日にでも、図書室から富士山を眺めたり、食堂でオムレツパンを買いに行きたいのに、もうそれらは叶わない。こんな時間でさえも、いつか懐かしい思い出になるのだろうか。


 「遅いよー2人とも。電話切ってから慌てて門に走ったのに全然来ないんだもん。」
 「ごめんごめん。馨のヤツが卒業証書を教室に忘れてさ。まさか卒業式に証書を置いていくバカがあるかっての!」
 恵太の証書入れでこつんと頭を小突かれる。どうもぼんやりしてしまうととんでもないものを忘れてしまいがちだ。

 門の前は定番のフォトスポットのためか、多くの卒業生やその家族で混雑していた。なんとなく自然に列が形成されていたので、僕ら3人もそれに倣う。
 誰のスマホが一番最新だ、画素はどれが高いだと相談しながら列を進んでいたその瞬間だった。

 「よっ!」
 目の前の突然の景色に驚いた。3人をめがけて後ろから飛び込んできたのは、ずっと会いたくて、でも会えていなかった、大好きな顔だった。

 「今日は試験の始まる時間が早かったんだ。俺も証書とか色々取りに来ないといけないしね。」
 「お前、ロッカーに荷物詰めすぎって谷センがぼやいてたぞ!」
 「わざとだよ、最後の最後まで溜めて、あとはまとめて段ボールに入れて着払いで家に送るんだ。」
 「そんな事できるの?!」
 「グッチーが学校の郵便物の担当だから、言うと何とかしてくれるって去年先輩が言ってた。」
 「それ失敗しても俺ら絶対手伝わないからなー!」

 気付けばもう3月も中旬を迎えていた。年末年始からどれだけの時間が経っただろう。ここまでに色んな事があった。会ったら話したいことがもっといっぱいあったのに、会えば結局口から出てくるのはくだらない話題ばかりだ。
 あっという間に列は進み、4人で何枚も何枚も写真を撮った。
この数か月分を埋めるように、まるで女子高生のように、とにかく撮りまくった。

 その場で解散するのかと思えば、恵太はクラス会のために一度着替えると言い、よもぎは荷造りに追われているのでもちろん帰宅、学校にわざわざ来たはずの京ちゃんはロッカーの鍵を家の中に忘れたというので、結局全員で下校することになった。

 「もう一緒に下校するのもこれで最後か。かれこれ僕たち幼稚園とか小学生からだもんねぇ。」
 「じゃあまた一緒に帰るために次は全員同じ所に就職するってのはどう?」
 「ちなみに俺はこのまま行くとゆくゆくは研修医になって、病棟勤務の予定だけど皆一緒に通勤退勤する?」
 「そりゃ~無理がありすぎるな、そうしたら将来俺らの子どもができたら全員同い年にして近所に住んで一緒に下校させようぜ!」
 「恵太の発想って本当にどこまでも無限大すぎ。僕はまず大学で彼女を見つけるところからだな・・・。」
 「馨、次は大学デビュー成功させなね。懐かしいなぁ、高校の入学式に突然ワックスで髪テッカテカにした馨が現れたの。」
 「マジでその話はもう無し!思い出すだけで恥ずかしすぎる。」


 京ちゃんは後期入試がもしもダメだったら、熊本の親戚のところで農業を手伝わせてもらうらしい。九州なんて遠くに行ってしまったらいつ会えるのか不安になりそうだが、もうよもぎだって東北に行くのだ。何より、それを語る京ちゃんの鮮やかで強い眼差しを見たら、僕から彼に言うことは、もう何もない。

 春と呼ぶにはまだ少し早く、川沿いを走ると冷たい風が頬を切る。けれど昼下がりの日光はとてもぽかぽかとしていて、河原の草木も柔らかい命を芽吹かせ始めていた。
 あんなに汚いと思っていた川は、大きな富士に積もった雪を少しずつ解かしながら路をつくり、その清いせせらぎはまるで多くの生き物の目覚めを祝福しているようであった。

 卒業おめでとう、僕。
 卒業おめでとう、みんな。


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