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今日も署名をしている。

署名をしている。

私だけど、私ではない人が。

練り上げられた本名も最早番号のようなものに感じられてどの人格が私の名前を署名していても不快感も感じなくなった。

いつか、彼女ら人格本人の名前を署名しても許される世の中になればいいのに。とのたうった所で奥深く殻に引きこもっている私の思いは赤く分厚い壁に吸い込まれていってしまう。

私は周りが思っているよりも遥かに終わりを切望している。
そう、自負している。

常に怒るか笑うかだった母が泣き顔をみせたのは
不登校になった中学三年生。
病院附属のデイケアに行った時であった。
そのデイケアの年齢層は高く、若くても40代で歳上の方はばかりだったこともあり学校に行くよりも怯えずに向かえる場所だった。
いつ自分で自分を殺してしまうかわからない状態の私を父や母が交代で付き添いながら通っていた。
死にたいと喚いた娘が精神科のデイケアで当たり障りなく折り紙をして、コラージュをして、塗り絵をして笑う事が出来ている。


「学校よりも障害者の方の輪に馴染んだことが辛かった。」

現主人格と母の会話でもその光景を思い出す度に涙ぐむ母を見て何度自分の心をずたずたに切り裂いてやろうかと思ったことか。
父や母の当時の期待に沿うことが出来なかった私を。
望みの真反対に堕落していく私を。
自分が、許せない。

母はその時、どんな意味合いの涙を流していたのかわからないまま。

自分の娘が優等生から、精神疾患を患いきちがいと呼ばれ、落ちぶれてしまった不甲斐なさから泣いたのか。
思っていた子育てと違いすぎたから。
それとも、無理をさせすぎてしまったという後悔からだろうか。



数年経った今、先月だろうか。
私は久々に新鮮な空気を吸って心理士さんとコラージュを行った。

正直に言うと。内容に困った。

コラージュでその人の好きな物、深層心理、嫌いなものなどが伝えられる利点がある芸術療法の1つだと理解している。

が、真っ先に思いついたのは綺麗なものにしなければ頭がおかしいと判断されるという恐怖の感情であった。
まず自分の心の中で今まで否定されて来たものは出すべきでは無いと脳が危険信号を送り、当たり障りのない動物と空の写真などを使用して作り上げていくことにした。

表現することは好きだった。
例えそれが汚い。きちがいの。異常者。の作品だったとしても。

取り繕ってそれらしきものを作り上げた時には大きな安堵感と綿菓子の棒のようにくるまれた不安感が共存していた。

いずれ残るのは不安感だけだとは知りつつも、つかの間の安心感や達成感に浸っている時間がとても気持ちが良かった。

この瞬間はキチガイだと思われることが無いからだ。



私が正常になることは、もう絶対に無いと思う。
父や母にきちがいだと、頭がおかしくなったと。私のせいで毎日怒鳴り合う光景が、音が、頭から離れることは決してない。

だから

今日も私以外の私が、署名をしている。


(基本より。)

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