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梅雨明け前の青空に、加藤大治郎を想う。

 シンガーソングライター・沢田聖子の2001年の楽曲に『親愛なる人へ』という曲がある。1999年6月24日にわずか46歳にて逝去した早世の天才・村下孝蔵を悼んで作られた曲で、歌いだしの歌詞は以下の通りだ。

 梅雨明け前の青空は ひと足早く心を躍らせる 今年ももうすぐ夏が来る 街も人も浮かれ気分でざわめきだす

梅雨明け前の季節にこの曲を聴くと、自分はまた別の早世の天才のことを思い出す。その人の名は、加藤大治郎。1976年の7月4日、まさに梅雨明け前の季節に生を受け、3歳の頃よりポケバイのレースを始めると、その後間もなく若くして二輪モータースポーツの国内のノービスタイトルを総なめ。世界に活躍の場を移し2001年には二輪WGP250㏄シリーズで史上最多のシーズン勝利数記録である11勝をマークしてタイトルを獲得。特にモータースポーツの本場である欧州では、日本では想像がつかないほどの熱狂的な人気を博した。この年「埼玉スタジアム2002」のこけら落としで行われたサッカー日本代表との親善試合で来日した当時イタリア代表のアレッサンドロ・デルピエロが、離日時に成田空港で一時帰国した加藤大治郎と鉢合わせし、自身のメディア対応を放り出してサインをねだりに行ったエピソードは、今でも語り草だ。

 そんな加藤大治郎だが、近い将来の二輪世界最高峰クラス「Moto GP」でのタイトル獲得を嘱望されながら、今を去ること17年前、2003年の4月20日に、その2週間前に行われた2003年Moto GP開幕戦日本グランプリレース中のアクシデントによる負傷のためわずか26歳でこの世を去ってしまった。なお、生前加藤大治郎がつけていたゼッケンナンバー「74」は、日本人ライダーとしては唯一、Moto GPにおける最高峰クラス「Moto GPクラス」における永久欠番となっている(ほかに日本人ライダーとしては、一つ下の「Moto2クラス」で、故・富沢祥也の「48」も永久欠番となっている)。


 『親愛なる人へ』の歌詞は以下のように続いていく。

 私は、と言えばあなたを想い あの日をまだ信じられずにいます いつものように街から街へ 忙しく旅をしてるだけの気がして

 2003年4月6日のことは今でもよく覚えている。当時はまだ今のようにWEBでのストリーミング中継はまだ存在せず(Youtubeがようやくアメリカで産声を上げたかどうかのタイミングだ)、レースを生観戦するには直接現地に向かうかCS放送のチャンネル契約をするしかなかった時代で、その時自分はMoto GPの中継を観られるチャンネルを契約しておらず、スポーツ総合チャンネル「J Sports」で放送されていた富士スピードウェイのフォーミュラニッポン(第2戦)を観ていた。このレースは当時のトップドライバーであった本山哲が勝利を収めていた。レースが終わって上位入賞者のインタビューのために会見場に入ってきた本山の姿は、沈痛な面持ちで涙で目を赤く腫らせた、おおよそ勝者に似つかわしくないもので、その姿を見た時の強烈な違和感が今でも忘れられない。ほどなくして本山の口から、同じ時間に行われていたMoto GPの開幕戦で、本山にとって幼なじみで弟分でもあった加藤大治郎が事故に遭い、意識不明の重体であることが語られ、その時はじめて自分は彼の事故を知ることになった。

 2003年「Moto GP」シリーズ開幕戦日本グランプリ(三重・鈴鹿サーキット)で、加藤大治郎は予選11番手から決勝に臨んだ。前年に車両に関するレギュレーションの大幅改定が行われ、それと最高峰クラスへのステップアップが重なった加藤大治郎は、シーズン終盤になってようやく調子を取り戻したものの年間を通じて未勝利に終わり、この日は捲土重来を期しての一戦だった。予選セッションではいまひとつタイムが振るわなかったが、決勝レースでは開始からわずか3周で4位争いの集団までジャンプアップ。「今シーズンこそ」の期待が高まりつつあった矢先、悲劇が起きてしまった。鈴鹿サーキットの最終コーナーであるシケインの手前、およそ300㎞/h弱の高速域からシケインへフルブレーキングでのアプローチを試みる区間で、彼のバイクはコントロールを失いコース脇のタイヤバリアに車両ごと激突、全身を激しく打ちつけ心肺停止状態となり、ヘリコプターで緊急搬送をされた。

 その翌日から自分は、毎朝5時に起きることが日課になった。既にインターネットはブロードバンド時代に突入をしていたものの、SNSが席巻する時代がやってくるのはもう数年あとのこと。まだ紙媒体からの情報に速報性のあった時代だったので、特にモータースポーツの情報に強かった「東京中日スポーツ」をいち早く入手するためだ。当時住んでいたのは東京23区内で、朝の5時過ぎには一番早い版がコンビニに納品される。そのタイミングで毎日自宅近所のコンビニに通っては〈トーチュウ〉を購入し、加藤大治郎の容態を報じる記事をチェックする日々が続いた。ただ、その日々もわずか14日ほどで終わりを迎えるのだった。

 少年の心のまま大人になった人 突然サヨナラも言わず風になった

 懸命の治療の甲斐なく、2003年4月20日未明、加藤大治郎は脳幹梗塞により天に召された。その翌日、訃報を伝える東京中日スポーツを未だ捨てられずに手元に持っている。

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訃報を伝える記事の冒頭はこうだ。

《ロードレース世界選手権(WGP)開幕戦決勝(6日、三重・鈴鹿サーキット)で大事故に遭遇、意識不明の重体に陥っていた加藤大治郎選手が20日未明、入院先の三重県四日市市の三重県総合医療センターで亡くなった。享年26。》

 ふつう、現役のスポーツ選手の名前が記事に出てくるとき、その名前には敬称がつけられることがない。たとえばこの日の1面には前日に行われたF1・サンマリノGPの結果を伝える記事と、同じく前日のプロ野球・中日ドラゴンズの試合結果を伝える記事が併せて掲載されているが、それぞれの記事に登場する選手の名前はいずれも敬称略での記載となっている。加藤大治郎の名前の後ろにつけられた「選手」の二文字が、彼がもう還っては来ないという現実を自分につきつけてきた。そしてこれ以降、彼の在りし日の足跡を振り返る記事では、彼の名前は加藤大治郎さんと表記されることとなる。もはや選手としての仕事も終えて、本当に遠くに逝ってしまったのだ…。わずか二文字の敬称が、これほどまでに絶望的な距離を表現しうるのか…。言葉に表すことのできない苦々しさを今でも鮮明に覚えている。

 あれから17年、モータースポーツジャーナリストであった故・今宮純さんがアイルトン・セナ死去の際にコメントした言葉を借りれば「それでもモータースポーツは続いて」いき、2020年現在、Moto GP最高峰クラスでは2004年シーズンの玉田誠(このシーズン2勝のうち、1勝目のリオGPが行われたのは、加藤大治郎の誕生日である7月4日!!)以来、日本人ライダーは勝利から遠ざかっており、いまだ梅雨明けの到来とはなっていない。それでも、日本二輪モータースポーツ界の「梅雨明け」を待ちわびつつ、今から17年前の衝撃的な記憶と加藤大治郎さんのことを、梅雨明け前のこの時期の青空を見るたびに、『親愛なる人へ』のメロディーに乗せて私は思い出すのだ。

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