
うさぎが死んでも、私は生きる。
2021年5月22日土曜日。その日、朝10時に母から電話があった。
前触れのない電話は、神経質な私にとって大きなストレスだ。電話に出てから相手が要件を話し出すまでの間、あるいは着信に気付いてから折り返しの電話がつながるまでの間に、可能な限りの最悪の事態を常に考えてしまう性格なのだ。
電話で話したい要件がある場合は、心配しなくて大丈夫な連絡なのかどうかを先にメッセージで送り、返事が来てから電話をしてほしい。母にはもう何年も前から、そう伝えていた。
それでもかかって来た急な電話は、休日のためまだ眠っていた私の頭を、キーンと頭痛がするくらいはっきりと目覚めさせた。
電話に出る前にはもう、ああ、終わってしまったんだな、とわかっていた。
父が死んだときもこんなふうに、何が起きたかをはっきりと聞く前から予感がしていた。
1分ほどで電話を切ると、隣に寝ているはずの夫がいないことに気が付いた。
急に目覚めたことの反動のように頭がボーッとして、顔も身体もうまく動かないまま脳内だけが忙しくパニックになっていた私は、姿の見えない夫に「いなくなっちゃった」とスマホからメッセージを打った。
急いでトイレから出てきた夫と向き合って、しばらく茫然としていた。
幸いその日は土曜日で、さらに車検に出していた車がちょうど戻ってくる日だった。
その日に実家へ帰るも何も決まらないままだったが、とりあえず夫は車を取りに行き、私はやけにしっかりとした手順でキャリーケースに荷物を詰めた。
そうだ。父が死んだときも、祖母が死んだときも、私はすぐに泣くことができず、淡々と荷物を詰めたことを思い出した。
これが私にとって、命が終わったときに心を落ち着かせるためのルーティーンなのかもしれない。
飛行機のほうが所要時間は短いものの、空港までが遠い。
それより少しでも早く実家に向かって動き出したく、新幹線で帰ることにして、たったいま夫が取ってきたばかりの車で家を出た。
とてつもなく空腹なような、全く食べる気がしないような、そんな気分だった。
それでもこのあとの移動に備えて、何かを食べたほうが良いのではないか。私の中の一般常識がそういった。
コロナ禍において、新幹線の中で食事をとるのも忍びなく、かといって思考力がゼロなので何も思いつかず、ドライブスルーで買ったマクドナルドを胃に詰め込んだ。
あれもこれも食べすぎてひどく満腹になってしまった。
新幹線で実家の最寄りまでは、ここから4時間かかる。普段から移動中に眠れない私が眠れるはずなどもちろんなく、漫画アプリで延々と1巻無料の漫画を読み続けたり、全く耳に入らない音楽を聞いたり、靴を脱いだり履いたりしていた。
降車駅に着き、普段帰ってきたときにはあまり使わないタクシーに乗り込み、そこから15分ほどの実家へ向かった。
実家から自宅へと戻るときは、1分1秒でも最新の我が子を記憶に残しておくため、タクシーで空港や駅まで行くのが常だ。
ただ、何もなくてもタクシーに乗りまくる母と比べて倹約家な私は、これから長く過ごすとわかっている到着時には、基本的に地下鉄やバスを使って帰るのだった。
実家に着き、こんなときでもまずは手を洗ってリビングに入ると、気を紛らわすためずっと料理をしていたという母がこちらへ来て泣いた。
他人が泣くとあまり泣けないタイプの私はやはり冷静で、少しなだめてからすぐに我が子と対面した。
10年間、その高い体温で私を暖め続けてくれた彼の身体は、腐敗防止の保冷剤に包まれて冷たい。
ジワジワと涙が迫り上がってくるのを感じながらも、ゆっくりと彼を撫で続けた。
ぼんやりと、その顔を眺めるでもなく撫で続けてしばらくすると、ふと聞き慣れた「プス」という声が聞こえた。
うさぎには声帯がないので、鳴き声というものはない。しかし鳴き声のようなものはあって、鼻息でブーブーと音を立てて不満を表したり、ぷうぷうと喜んだりする。
プス、という音も、正確には鼻息と共に出るいびきのようなものだ。
その瞬間から私はほんの少しの間だけ、静かに、しかし思い切り振った炭酸飲料が噴き出るほどの勢いで泣き、またすぐ泣き止んだのだった。
15年ほど前、中学3年になったばかりの4月。家でうさぎを飼おうと、姉だったか母だったかが言い出したとき、私は強く反対した。
あんなに小さくてかわいくてよく動く動物、家に放したら誰かが踏み潰して殺してしまうかもしれないからだ。
もしも自分がそんなことをしたら、もう私なんかの命では償いきれないし、その後生きていられる自信がなかった。
家族の中で最も神経質で、何事にも細かくよく気が付くのは私だ。そんな私だからこそ、母や姉に小さな動物を育てられるほどの繊細さがあると、信用することもできなかった。
それでも私の意志とは関係なく、ホームセンターのようなところへうさぎを見に行く休日を経て、だったら真っ白のミニウサギ(見に行った時点でユキちゃんと名前を付けていた)が良いという私の希望も却下され、チェスナットで女の子のネザーランドドワーフを迎えることとなった。
それはもう、かわいいに決まっていた。当たり前だ。何せ家族の中で最も動物が好きなのも、この私である。
幼い頃は、犬や猫がいると聞けばすぐにひとの家へ行った。記憶にはないが聞くところによると、誰なんだかよくわからない人の家でもお構いなしに上がり込むほどであったらしい。危ない子どもだ。
野良猫を触り過ぎて猫アレルギーを発症し、顔にも身体にもおびただしい範囲の蕁麻疹ができたこともあった。
こうして家にやってきた子を、私たちは知識もなくただただ甘やかした。もちろん育て方の本を多少読み、絶対に食べさせてはいけないものを把握するくらいのことはした。
ただ、抱っこができるよう躾けるだとか、定期的に病院に連れていくだとか。そういうことをしないまま甘やかし、そういうことの全くできない子に育ててしまったのだ。
一緒に暮らし始めて3年半ほど経った、高校3年生の秋。その子の様子がどうもおかしいことに気がついた。リビングのラグの上に、点々と尿がついていたからだ。
それが2日ほど続くので、「病院に連れて行って」と私は言ったが、母は「抱っこもできないし、キャリーに入らないから大変なのよ」とだけ言って何もしなかった。
自分の意志がはっきりわかるようになって以降初めて動物を飼い、まだ高校生で、しかも受験生だった私に、それ以上できることはなかった。
行きつけの動物病院もなく、もちろん自分で車も運転できないのだからなおさらだ。
そうこうしているうちにその子の体調は、ペレットを食べられなくなるくらいまで悪くなっていた。
母はようやく、夜中に救急病院へ連れて行った。移動用のまともなキャリーも持っておらず、取っ手付きの柔らかいカゴのようなものにその子を入れて、上にタオルをかけた状態だった。点滴を受け、その翌日の日中に改めて病院へ行ったが、もう手遅れだった。腎臓が悪くなっていた。
受験生であるにも関わらず「体調不良です」と自ら一度だけ連絡して高校を3日ほど休み、つきっきりで様子を見ていた。
とはいえ何をすれば良いかはわからず、ふやかしたペレットを口もとへ持って行ったり、ただ撫で続けたり、とにかくずっと何かをしていた。
その子はもともと神経質で臆病。野生的なタイプだ。撫でられてうとうとと寝ていても、誰かが「パチン」と爪を切る度目を開けるほどに。
そんな子が、具合の悪いときに人間を全面的に信用してくれることはなく、このような状況でも身体を預けて甘えてくれるようなことはしなかった。
そうして数日経ち、私がふやかしたペレットを食べてもらおうとしていたとき、その子は数秒激しく痙攣して命を終えてしまった。まだ3歳。いくら短命の小動物とはいえ、短すぎる命だった。
本当はその子が初めてのペット、初めてのうさぎではなかった。
もっともっと幼い頃、身体が真っ白で、青みがかったグレーの目をした子が家族だったことがある。
おそらく出会いは2歳か3歳。友人家族と2組、子どもは4人でどこかの公園へ行き、芝生の上で遊んでいたところに、若いお姉さんとお兄さんが近づいてきた。
なぜかは分からないが、そのふたりは白いうさぎと黒いうさぎを連れていて、その子達を触らせてくれた。
しばらくするとお兄さんかお姉さんか、どちらかが言ったのだ。「白いほうならあげるよ」と。
いまとなっては現実かどうかよく分からない、夢のような話なのだが、記憶の中ではそうなっている。
友人家族とどう話したのかは分からないが、我が家のほうがその子を迎え入れることとなった。
その子を迎えたとき、両親と姉と私、4人は首都圏でマンション暮らし。もちろん完全室内飼いだった。
しかしその1年か2年後、私が4歳のときに両親は離婚。
福岡の田舎に祖父母が建てた一軒家に、既に出戻っていた叔母とその息子2人とともに、住むこととなった。
もともとそこまで動物に興味のなさそうな父のもとにうさぎを置いていくこともできず、母曰く“飛行機の中でも胸に抱いて”、大切に田舎の家まで運んだのだった。
しかし祖父母にとって、動物は外で飼うものだった。室内で飼われていたその子は、祖父母が知り合いの大工に頼んで庭に建ててもらった木製の小屋へ、突然入れられた。
もちろん、その後も生涯にわたって虐待などをされたわけではない。その家の庭はもう一軒家が建てられそうなほど広く、日中は基本的に庭へその子を放し、本人も嬉しそうに遊びまわっていた。
庭にはどこかから種が飛んできたらしいレタスなどが勝手に生えていて、そういったものをおやつがわりに食べていた。
ただそうすることで野生に近くなってしまったのか、私の関心が希薄になりすぎていたのか。もともと抱っこが苦手ではなかったはずのその子を、抱きしめることも膝に乗せて撫でることも、それ以降ほとんどなかったように思う。
引越しから2年ほどすると、いろいろとあって、母は子どもとうさぎを置いたままもう家にはいなかった。
祖父は私たちが連れてきたその子をかわいく思っていたようだったが、祖母は動物が好きではなかった。
常にその子を邪魔者扱いする祖母を見ていると、姉や従兄弟や叔母の誰からも遊んでもらえずずっと祖母の近くにいる私は、かわいいと思う気持ちを少しずつ弱めていったのかもしれない。
言い訳になるが、5歳、そしてその子がいなくなるときに8歳ほどだった私には、命を扱うことの重さも、この世には適切なうさぎの飼い方が存在することも、何ひとつわからなかったのだ。
朝起きたら小屋の扉を開けて庭へ出すのは良いのだが、雨が降りそうなときや日が落ちる頃には、小屋に戻さなくてはならない。当然その子は狭い小屋に戻りたくないので、人間の入れない植え込みの裏などに入り込むことが日常だった。
ではどう小屋に戻すのかというと、これを思い出すのはとてもつらい。
祖母が「そろそろ小屋に入れなさいよ!」と言うと、あまり長く待っていてはもらえない。怒られてしまう。
竹箒などの柄を使って、植木の裏に潜むその子のお尻をつつき、どうしても動かないときは、パンッとお尻を叩くのだ。
小学校低学年の子の力が、子どもと触れ合ったことのあまりないいまの私にはわからない。もしかしたらものすごく強かったかもしれないし、幼いなりの弱さだったかもしれない。
覚えているのは、叩かれるとピャッとそこから逃げ出すその子と、小屋に入るまで追いかけ回す私だ。
小学校3年生か4年生のとき、叔母と子どもたちが泊まりで出かける日。朝から庭へ出されていたその子を、私は小屋に入れるため探していた。
しかしどうしても見つからず、それを叔母(このひとが本当に最低な人間であることはいつかどこかで話すとして)に話したが、放っておきなさいとか何とか言われて、そのまま出かけることになってしまった。
私は祖父母に、庭のどこにもその子がいなかった旨を伝えたと思う。
泊まりの用事を終えて帰宅しても、その子はどこにもいなかった。
「死期を悟って、自分から見えないところへ行ったんじゃない」と誰かが言った。それは猫の話だし、迷信だろうといまはわかる。そのときはもう、それ以上何も考えられなかった。
家の庭はある程度柵などで囲われていて、どこからでも敷地の外に出放題というわけではなかった。
しかしそれなりに、抜け道を見つければ外へ出られる道はあって、そこから外に出てしまったことがそれまでにも2〜3回あった。
けれど近くを探せば必ずその子はどこかにちょこんといて、ちゃんと連れ戻すことができていた。
あのとき、あの朝、私が外まで探しに出ていれば、あの子は帰ってきてくれたのではないか。
私以外の子どもや叔母や祖父母は、そのときどうしていたのか。どんな気持ちだったのか。いまとなっては知る術もないが、私以外の全員が、そのことについて深く後悔している様子はこれまで一度も見たことがない。
うさぎの平均寿命は、世の中のひとが思っているよりもずっと長い。というより、年々延び続けている。適切な飼い方が広まり、定期的な通院をする人間が増え、犬や猫のついでではなくうさぎを専門に見られる動物病院も増えて来たからだと思う。
私が初めてうさぎを迎えた頃の寿命は5〜6歳くらいが平均だったが、現在は7〜8歳といわれ、10歳を超えるうさぎも多くいる。
その分、我が子の寿命がいつかはなかなか分かりづらいものだ。
東京で社会人になってすぐの頃、金曜日の夜。労働時間でいうところのブラック企業に勤めていた私が、その日は早めに仕事を終わらせ、20時頃。駅から家に向かう途中の商店街にある、深夜1時まで営業している本屋の前を、現在の夫である彼氏と歩いていたときだ。
母から急に電話がかかって来た。我が子が体調を崩して病院へ行ったが、もう大丈夫だという連絡を受けた。
我が子は6歳。うさぎ界ではもう高齢といっておかしくない年齢だった。
とりあえず急いで自宅へ戻り、パソコンを開いてすぐに翌日の飛行機を予約した。
社会人1年目にとって、土日一泊のために東京・福岡間の往復チケットを買う出費は大きい。しかしそんなことははっきりとどうでも良かった。
18歳の6月。大学浪人のため予備校に通っていたとき、父が死んだ。
2年ほど前から癌だとわかっていて、2度会いに行ったが、その時点ではもう9ヶ月会っていなかった。
その間に入退院を繰り返し、数日前には意識を失っていたのだが、姉を筆頭にそれを知る者は誰も私にそのことを教えてくれなかった。
学歴主義の父が、受験に障るといけないと言ったらしい言葉を、意識を失ってもなお守り続けたのか。私はそうではないと思っている。
もちろん私がもっと、連絡をとっていれば良かったのだ。当時はまだガラケーの時代だったが、メールは可能だった。
でも浪人生の私に父と話す話題などなく、そもそも私と父はそんなにフランクな仲とはいえなかった。私は父のことが好きだったが、4歳以降1年に一度会うだけの父とは、いつまで経っても距離感が掴めていなかった。
父の死以来、死は突然に訪れるものだという認識が、同世代よりは強く心にあった。だから我が子が体調を悪くし、もう回復したと聞いても、会いに行かずにはいられなかった。
そこから彼が死ぬまで、私は後悔することのないよう、より一層頻繁に実家へ帰り続けた。
私にとって最後の、3匹目となるうさぎを迎えたのは、2匹目の子が亡くなってからわずか3週間後だった。
受験を控えて心身ともに疲弊していた私も、他の家族も、3年という短さで唐突に尊い命を失ったことが受け入れられなかった。要するにペットロスだ。
正確には、亡くなって2〜3日後に癒しを求めてペットショップへ行った。そこで子うさぎを見たことでリミッターが外れ、迎えることを決意して、3週間後に再び訪れたという流れだったと思う。
次の子は前の子と全然違う見た目にしようと、耳の垂れたホーランドロップにすることは決まっていた。
ただ前の子を迎えたときと同様、私は後の我が子ではなく、同じケージに入っていた白黒のブロークン(という毛の模様)の、まるでパンダのような子を迎えたがった。
しかし、息を吹きかけても微動だにしない神経の図太さが安心だ、という義父からの意見により、オパールという(グレーの中にオレンジの毛が混じった)毛色の男の子を迎えることになった。
希望する子かどうかなんて、迎えてしまえば関係ない。家にいる時間は基本的にひとりの私にとって、その子はもう私の子だった。他の誰よりも、私の子だった。
それから私は一度目の受験に失敗し、浪人してから翌年東京へ行くまで、1年半ほどの期間を一緒に暮らした。10年間のうち1年半と思うと短いような気もするが、一緒に住んでいるかどうかは全く関係がなかった。
大学生は、遊ぶのに忙しい。例え実家がそう遠くなくても帰らない人々が多い中、私はお盆と年末年始にはせっせと実家へ帰った。我が子がいなければ特段、積極的に帰りたいわけではない実家だったけれど。
大学の知り合いには常々「私のいちばんの家族はうさぎだ」と話していて、実際そういう気持ちだった。パソコンもスマホも待受画面を我が子にし、スマホのほうには必ず最後に会ったとき、つまり最新の我が子の画像を設定していた。
誰との会話であっても、隙あらばうさぎがかわいいという話題を持ち出し、その度にロック画面の我が子を出しては印籠のように見せるのだった。
社会人になっても私は実家へ帰り続けたし、ことあるごとに誰彼構わず我が子の写真を見せ続けた。
気付いたら私は、うさぎという生き物全般についての知識がとても人並みではなくなっていたし、家にあるうさぎグッズはほとんどが人からの貰い物だった。
うさぎは私のアイデンティティであり、うさぎがアイデンティティであることが、私の心の支えだった。
新卒でブラック企業に入社したとき、仕事の忙しさの中で私を不安にさせていたのは、常に「我が子に何かあっても、この会社にいてはすぐに帰れないのではないか」というものだった。
私は新卒にしてはなかなかはっきりものをいうほうだったが、“ペット”という存在への価値観は、ひとによってあまりにも違いがある。
「実家のうさぎが死にそうなので何もかも放り投げて帰ります」とは、いえないのではないかと思っていた。
そんな会社に勤めているとき、6歳の我が子が体調を崩したのだ。それだけが理由ではもちろんないが、退職を考えるひとつのきっかけにはなった。入社して11ヶ月で、その会社を辞めた。
6歳で体調を崩して以降の我が子は、うさぎの世話以外にやることが特にない母のもと、定期的な通院を続けたおかげで10歳を超えても元気に生きていた。
10歳というと、うさぎ界ではもう長寿の部類に入る。8歳頃からは加齢が要因といえる心臓病を発症したが、処方された薬を朝晩飲むことで、特に悪化することなどもなかった。
さらに9歳頃からだったか、白内障が進行し始めた。特に右目の進行が早く、徐々に白く濁って、眼圧が上がりほんの少しだけ眼球が前に出てきてしまう。そのための目薬も処方されていた。
そして鼻涙管の炎症(つまり?)によって、時折涙も多く出てしまい、目の周りがカチカチに固まってしまうようになった。花粉症のひどい朝のような感じだ。
しかもそれを拭き取ろうと顔を拭うので、両手の内側もカチカチになってしまう。涙を止める薬ももらっていた。
うさぎのような小さな動物の目の周りを、丁寧に綺麗にしてやることは、還暦近い母には難しい。
しかも抱っこが得意ではない我が子の目の周りをケアするには、人間が這いつくばる必要があるので尚更だ。
私は定期的に実家へ帰っては、コットンやらお湯やら小さなブラシやらを使って、丁寧に目の周りのかたまりを溶かしてやった。
海のような匂いのする目元を根気強く綺麗にしてあげる間、若い頃はブラッシングなどを意地でもやらせなかった我が子は、おとなしく、プフプフと音を立てながらケアを受け入れていた。
垂れ耳であるホーランドロップは、外耳炎になりやすい。我が子もまた外耳炎をたびたび起こし、あまりにひどくなってしまったので、9歳でその手術もした。
9歳という高齢で全身麻酔の手術は非常にリスクが高いが、手術を勧められるほど体力がありそうだと判断されたということだ。
かかりつけ医は、九州でうさぎを専門的に診られる病院の中で、一番といって良いほど有名な病院である。わざわざ鹿児島やら佐賀やらから、うさぎを連れてくるひともいるほどだ(しかしうさぎのような小動物に長時間の移動は勧められたものではない)。
院長先生を信頼していた私たちは、つらそうな我が子を見ていられずに手術をお願いし、9歳ではなかなかないほど術後も元気に帰ってきたのだった。
その手術は2020年の秋頃、私がフリーランスになってから約2週間のときで、手術に合わせてまた私は実家に帰っていた。
心臓の粉薬、白内障の目薬、鼻涙管の目薬、外耳炎手術後の粉薬(抗生物質である)。人間の高齢者と同じように増え続ける薬にも耐え、最後まで本当にかわいく生きていてくれた。
我が子の体調がいよいよ悪くなったのは、10歳と8ヶ月、2021年4月の始めだった。母より「立てなくなってしまった」と連絡を受けたのだ。
結婚のために東京から東海地方へ引越し、夫婦で暮らし始めたばかりだったが、4月11日に福岡へ飛んだ。
実家にいる間、私は常にうさぎを中心に動いた。週に1度ほど、何かしらの症状や心配事が出てきて病院へ行く。多少は仕事もある。掃除や料理など家事もする。そして我が子をかわいがる。
気持ちは元気なままの我が子は、動かない足を引きずっても動きたがる。
引きずられた足が床と擦れてしまうと良くないので、動きたそうな素振りを見せたらすぐに後ろ足を持ち上げて、前足だけで走れるように支えた。
何をするにも常にリビングで過ごさなければならなかったし、人間の膝や肘は床で擦れてカサカサになり黒ずんだが、人間のサポートにより走りたいだけ走れる我が子を見るのは幸せだった。
そうこうしているうちに、前足だけで走ることも難しくなった。
上半身を持ち上げるだけで精一杯となり、後ろ足を持ち上げても走ることはできない。
それでも匍匐前進はできるので、やはり足が擦れる。私はユニクロで初めてベビー用品のフロアへ行き、赤ちゃん用の靴下を買った。
ユザワヤでボタンやゴムも買い、得意でもない手縫いで、付け外しが楽なように色々と靴下に細工をしたが、元気に匍匐前進をするとどうしてもすぐ脱げてしまう。
何度も試行錯誤をしたが、結局、赤ちゃん靴下の入口をできるだけ狭めただけの、シンプルな加工に落ち着いた。
前足だけで何とか起きあがろうとする強い意志と匍匐前進の影響で、前足の形が少し悪くなってしまい、人間でいうところの親指の位置に大きなかさぶたができた。
その周りのカサカサになった皮膚をケアしていると、あるときかさぶたが取れ、常温のバターのような白い膿がこれでもかというほど大量に出てきた。
これまた病院に連れていき処置をしてもらうが、もうこれは治療するようなものではない、仕方のないことだと言われてしまった。
老いによって四肢が満足に動かないことよりも、明らかに痛そうな外傷を放っておくことは、人間にとってなかなか辛いことだった。
3歳で死なせてしまった子への後悔から、次の子を迎えるにあたって、私はうさぎに関してとにかく勉強した。母もまた同じで、子うさぎの頃からとにかく病院へ連れて行くようになった。
まだ我が子を迎えてから数ヶ月と経たないとき、下腹付近にしこりのようなものを見つけて、焦って病院へ駆け込んだことがある。
「ここに何かあるんです!」と焦る私に、獣医師は冷静な声で「睾丸ですね」と言った。
そんな恥ずかしい経験をして以降も(ちなみに同じことを乳首でもやった)、月に1回は病院へ行って爪を切ってもらい、何かあればすぐに相談することを続けた。
そのおかげで10歳になるまで元気でいられたと思う。医療の力は本当にすごいし、人間が人生100年時代になってしまったことにも頷ける。
食べ物に関しても多くを学んだ。うさぎといえば、にんじんやキャベツなどの生野菜をむしゃむしゃと食べるイメージが強い。小学校や動物園、絵本で見るうさぎは野菜を食べていることが多いからだろう。
しかし実際のうさぎに生野菜や果物は必須ではない。何ならにんじんやキャベツは糖質が高く、常に与え続けるのは良くない。与えるならセロリのように、カロリーが低く食物繊維の多い野菜が良いとされる
うさぎの主食はペレットと呼ばれる、草を固めたような見た目のフードであり、犬でいうドッグフードのようなものだ。
1日の量が決められたペレットに加えて、チモシーと呼ばれる牧草を常に食べ放題状態にしておく。野菜や果物は、おやつとしてなら与えても良い、程度の認識だ。
その上、1歳以下の子うさぎには、生野菜や果物は与えないほうがむしろ良いそうだ。水分を多く含む野菜を食べることで、お腹がゆるくなる可能性があるかららしい。
というわけで我が子を飼い始めてから1年間は、生野菜を与えずに育てた。そうして1歳を超えた頃、目の前に生野菜を出してみたが、全く興味を示さなかった。
りんごの皮やにんじんを自宅で乾燥させたものや、市販の乾燥野菜、フリーズドライの果物などはよく食べた。
そんな我が子だが、高齢になってからはなぜか、生野菜や果物に興味を示し、積極的に食べるようになっていた。とはいえペレットやチモシーを多く食べてくれたほうが健康に良いので、元気なうちはおやつ程度にしていた。
介護になってからも、できればカロリーの高いペレットを食べてくれることを願った。しかしカリカリに乾燥したものを食べるのは大変なのか、正直そもそも美味しくないのか、次第にペレットを食べる量が少なくなっていった。
それと同時に、水をあまり飲まなくなった。立つことが難しいので、飲みやすいよう工夫をしたり、ハムスター用の小さな給水機を買って口元に持っていったりしたが、充分とはいえない量だった。
獣医さんに相談して「あとは好きにしてあげてもいいんじゃないか」と言われ、状況は既に緩和ケアだと気づいたとき。我が家は完全に、残りの時間を幸せに生きてもらうことに舵を切った。
ペレットも口元に持って行くが、食べないときは無理に食べさせようとしない。その代わり食べたい分だけの生野菜を食べさせて、そこから水分もとってもらうことにした。
セロリを中心に香味野菜が好きなようなので、セロリ、パセリ、ケールのほか、葉付きのにんじんやキャベツも常に新鮮なものを用意。余ったものや少し古くなったものは人間が食べて処理した。
人間のためには買わないような高い野菜も惜しみなく用意して、食べやすく切ったものを1日4回ほど、人間が口元まで持っていって食べさせることを繰り返した。
もうすぐ来るお別れのために、一瞬も見逃すことのないよう視界におさめ、動画を撮り、シャクシャクと食べる音を録音した。
お気に入りのシーンは、パセリを茎から食べてもしゃもしゃの部分にたどり着くところだ。
もしゃもしゃが口の端から端までを覆っている状態になり、口から森が生えているような見た目が何ともかわいいのだ。
食べている音もまた、野菜によって音が変わるのがかわいい。
5月10日。1ヶ月以上介護の日々を過ごしたところで、うさぎの様子も落ち着いていたので自宅に帰ることとなった。
できれば最後を迎える瞬間に傍にいてあげたいが、それは明日かもしれないし、半年先かもしれない。
すでに自分の部屋もなく、常にリビングで過ごしながら家事も仕事も介護も続けることは、精神的にも限界だった。
自宅に戻ってから12日間をどう過ごしたかの記憶はないが、そうして5月22日を迎えた。
腐敗防止のために保冷剤で身体を冷やすのは、翌日まで一緒に過ごせるようにするためには必須の処置だ。明日にはもう、火葬してしまう。
しかし10年間、人間よりも高い体温を保ってきたその身体がこうも冷えていると、どうしようもなく可哀想に思えて、つい温めたくなってしまう。
もう歩けない彼を介護しているとき、仰向けになった胸の上に乗せてあげると、とても落ち着いてくれた。
元気な時は抱っこが苦手な子だったので、全身で包んで抱きしめてあげられることが嬉しくて、暇があれば床に寝転がりずっとその体勢を続けて、首も肩も腰も少しおかしくしてしまったのだった。
冷たくなった身体を保冷剤から離して、胸の上に乗せるとやはり冷たい。
それでも愛おしい気持ちは変わらず、そのままうつらうつらとしているうちに3時間が経過していた。
彼の口からよだれのようなものが少し出て、Tシャツについていたのを愛おしいと思った。
しかし私の体温で温められたためか、お腹から少し発酵の香りがしてきてしまった。
ごめんね、と言いながら、また保冷剤の上に戻した。
翌日、火葬をした。
前の子のときは、ペット火葬を専門にしている寺のような場所(おそらく本物の寺ではない気がする)に出向いた。
今回は母が出張でペット火葬をしてくれるという業者を見つけ、マンションの下にある駐車場へ連れて行くだけだった。
トラックの荷台に火葬のできる設備が積まれ、コインパーキングに停めたまま火葬を行う。完了したら連絡が来るのだ。
風情もないし、周りから見ても怪しいし、そもそもそんなところで火葬なんてして良いのか。疑問は多々あったが、それはもう良いことにして、我が子を連れて行く。
最後に彼を抱き、台に置いたのは私だ。
1時間ほど経った頃だったか、完了した連絡を受けて向かう。当然のことだが、小さな身体は真っ白の骨になっていた。
歯が残っていた。目立っていたのは前歯だったと思う。一生伸び続ける歯で、丈夫なものだ。
一つひとつが我が子をなしていたものだと思うと、骨壺に入れる手が遅くなる。全てをしまい終え、家に戻った。
全てが入った骨壺の蓋をもう一度開け、私は中を慎重に探った。できるだけ小さな、しかし彼を構成していた要素の中で重要な役割を果たしていたであろう部分を探し、それを飲んだ。
どれだけモノの形見を残すより、私の身体の一部となってくれたほうが、ずっと一緒に生きていられるからだ。
本当は前の子のときにも、そうしてあげたいと、そうさせてほしいと思っていた。けれどできなかった。
あのときの私は、人生をどれだけまともに、普通に生きられるかばかり考えていて、「常識的」という言葉にひどくしばられていた。
世の中にはさまざまな人間がいて、ある程度自由に生きても何の問題もない。同様にひとにはそれぞれ供養の仕方があって、それは誰かを傷つけない限りやっても良いことだと、いまの私は思う。
そのことが、当時の私にはわからなかった。
死んだペットの骨をこっそり飲むひとがいたって良いんだと、思うことができなかった。
大人になり、ようやくやっても良いことだと思えたときには、既に母があの子の骨をどこかに撒いたか埋めたかで処分してしまっていた。ごめんね。
完全に乾き切った食物ではない固いものを飲み込むのには、少し勇気が必要だったが、私はついにこの儀式を実現できることに、多少の晴れやかな気持ちを持っていた。
前の子の分の気持ちも抱えて、いくつかの骨の欠片をひとつずつ飲み込んだ。
これでもう、後悔しなくて済む。私はこれからもずっと、あの子を見守り、見守られながら生きていられるのだ。
結婚したら、犬と暮らすと決めていた。うさぎのことは、動物の種としていちばんかわいいと、いまでも思っている。
でもやはり、放っておくと踏み潰してしまいそうな小さな命を迎えるのは、もう経験しなくても良いかもしれないと思うのだ。
そして私は基本的に全ての動物が好きだし、昔からずっと犬と暮らしてみたいと思ってもいた。
6月4日。私はある犬のブリーダーに、犬を迎えることを検討していると連絡を取った。
まだ我が子を失って時間が経たないうちに、子犬を迎えたいと思ったのではない。まともなブリーダーであれば、常に販売できる子犬を抱えてはいないと知っていたからだ。
いまから連絡を取り、どこで迎えるかを決め、ゆっくりとあの子への想いを消化しながら、1年後くらいに迎えられたら良いなと考えていた。
正確には、結婚が決まってからしばらくして、私は犬のブリーダーを探し始めた。これだと決めていたのが、そんなにメジャーではない犬種だったからだ。
保護犬は成長する大きさがわからず、一軒家でないと飼うことが難しい。そして保護前の環境によっては、初めて飼う犬としてあまりにも難易度が高すぎるため、今回は見送った。ペットショップで犬を買うのは、私の中では論外だった。
もちろん、我が子が生きているうちに犬を迎える選択肢はなかった。一緒に暮らしているわけではなくても、私の子は常にたったひとりと決めている。
どのブリーダーから迎えるかを決めるのにしっかりと時間をかけ、吟味したかった。いつか来るときのため、どこへでも行きやすい東京にいる間に、ブリーダー選びを進めておこうと思ったのだ。
結果的にブリーダーを確定することはできないまま東海へと引越し、その後はずっとうさぎのことでバタバタしていたので、6月になりまた少しずつブリーダー探しを再開した。
しかし1年後くらいを想定していた犬との生活は、この連絡以降の運命的な出来事の連続により、瞬く間に進んだ。
6月20日。私たちは京都のブリーダーのもとで、白く小さく、真っ黒な目をキラキラと輝かせた犬と対面した。7月10日に、その子を迎えることになった。
6月25日。ブリーダーから電話がかかってきた瞬間、私の身体は一気にこわばった。
何が起きたか知りたく、すぐに「はい」と電話に出た私の声は、鬼気迫るものがあったと思う。
「いまからワクチンを打ちに行くのですが、5種で良いでしょうか?希望があれば増やすこともできるので、一応確認しておこうと思いまして」
そうですか、わざわざありがとうございます。全然、通常通りで、良いようにしていただければ、何でも大丈夫です。よろしくお願いします。
何とかそう言って電話を切ってから、まだ何もいない家の中で、私は泣いた。
忘れることはできない。まだ私の中で、あの子はいちばん大切な命なのだ。
それでも私は犬を迎えるし、彼にしたのと同じように、その子を心の底から愛するだろう。
悲しみ続けることは、きっと誰にとっても良い選択ではないはずだ。
うさぎが死んでも、私は生きなくてはならないのだから。