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クシャナのこと

 わたしの子供達は三人ともキリスト教の幼稚園にかよっていたが(忘れるほどむかしのことのような気がするのは、まだ充分に年を経ていない証拠でもあろうか)、今はすでに亡くなられた園長先生は「母の会」のとき何度か、自分がクリスチャンになるに当たって仏教の本も読んだ、というようなことを言っておられたのをよく覚えている。
 キリスト教は天地創造の唯一の神をのみ崇めることを、またまことの神とすることをその教理としているが、それを確認するためか、あるいはそれをまず疑ってみてか、そのへんのことは先生の口から聞く機会はなかったが、とにかく、ほかの宗教の本も読んでみるという先生の冷静かつ客観的な態度は、先生が信仰を学問的に比較しても考えてみようとお考えのあらわれであるともいえる。そうした上でなおキリスト教を信仰することを決意されたということは、とかく物事に影響されやすく、情けに流されがちなわたしには新鮮な驚きであった。
 信仰というようなまったくの心のはたらきは、ともすると状況によっては心のすきにつけいる(大変いやな表現ではあるが)ことが少なくない。ほとんど衝動的に決めてしまうことさえあるというのに、あるいは代々仏教であ るからなんとなく仏教という例の多いなかで、人生の価値観そのものを全面的に変えてしまう信仰をこのように理性的に考えるのは、そうたくさんの人にできることではないと思う。
 それを真似して、というわけではないが、わたしも洗礼を受けるまでにいろいろな本に出会い、そのなかにはもちろん宗教色の濃い異教の本も含まれている。わたしの場合は先生のような学問的な意向はなく、単なるヤジウマから出た何でもみてやろうという貪欲だけで、従って冷静さには欠け、きわめて主観的に好き嫌いで物事を決めて本にたいする評価を下している。
 わたしのひとつの癖で、新しい本を手に入れるとその場で裏表紙などにその年月日とその時点での自分の心境を書き込むことになっている。これはもうティーンエイジャーのころから続いている癖である。
 ヤジウマが買った新しい本は小学館の「バウッダ」というものである。そしてその裏表紙には次のようなことが書かれている。
1987年4月17日
萩原さん届けて下さる。京都教法院にきけどアガルタは不明。
平河出版のルネ・ゲノン「世界の王」の日本語版のできるまで待つこと余儀なくさる。今年の末頃の予定とか。
失われた地平線
1987年5月15日 Fri
神谷氏事故のため死亡 於 有明海
これらのメモはあとでまたこの本を見る機会のあるときにきわめて役に立つもので、わたしの娘などはそのものよりもこのメモを読む楽しみをまず味わっているようである。
 「バウッダ」とはサンスクリット語で「ブッダを信奉する人」のことである。日本では明治期に欧米近代の移入を図った時点でさまざまの新語が造られ、本来の意味を改変されて、すでに日常語化しているものがたくさんある。昔は仏法といったものを仏教としたところから現在の日本で一般に仏教と称されている観念に大きな誤解が伝達しつづけられているとこの本の著者は述べている。 この本の内容全体についてはともかくも、読み進むうちにひとつの非常に興味深く、ショッキングな考え方にぶつかった。 日本で「セツナ」といえば、さしずめ柴錬描くところの眠狂四郎得意の円月殺法が宙に舞うときに使われるような形容であるが、サンスクリット語のクシャナを音写して「刹那」の字を当てている。クシャナはインド仏教の数える最短の時間単位で、75分の1秒で、人が生じ、住し、異し、滅する、この間が1クシャナである、 というのである。この記事を読んだときに、わたしは思わず背すじが寒くなった。わたしの友達にこのことを話すと、やはり彼女もゾッとする話しだといった。
 同じころ、偶然に「とんでもない本を買ってしまった」と思っていた電気工事会社に勤める男性からヒンドゥー教の宇宙観について書かれた本を借り、読むチャンスに恵まれた。一部をコピーしてとっておいてはあるが、や はり今ではほとんど忘れてしまっている。本は自分の書に自分のものとしてあるのが望ましい。
 0を発見したのがインドの数学者であることとヒンドゥー教の時間的な観念はどこかでつながっているようにも思えるが、つまり、数学と哲学はたしかにどこかで同じ根源をもつのはおぼろげながら気がつくのだが、はっきり「ここで」というのがわからない。

 「忘れるほどのむかし」に思える三人の子供たちの幼稚園時代はわたしの1クシャナのさらに何分の1に過ぎず、園長先生の1クシ ャナの残すところ少なかったころで、有明の海に、何Gもの重力にさからえず飛行機とともに沈んで亡くなられた神谷氏は、まさにその瞬間に彼の1クシャナを終え、そのお葬式に行ったわたしの1クシャナはさらにその残りをインドの神にかじり取られ、今もなおかじられつづけているのか。
それを思うとゾッとする。
それを思うとむなしくなってしまって、0の気分。
しかし、0.0133…秒とはいえ決して0ではない。決して「無」ではなく、かすかながらも「有」には違いないわたしが、こうして今の時を意識している。

(平成元年六月)


生まれたものたちは、死を逃れる道がない。
老いに達して、死ぬ。実に生あるものたちの定めは、このとおりである。
若い人も、壮年の人も患者も、賢人もすべてが死に屈服してしまう。
すべてのものは必ず死に至る。
彼らは死に拐えられて、あの世に去ってゆく。
しかし、父もその子を救わず、親族もその親族を救わない。
(第三章第八節より)

ああ、短いかな、人の生命よ。
百歳に達せずに死ぬ。
たとえ、それよりも長く生きたとしても、また老衰のために死ぬ。
(第四章第六節より)

『スッタニパータ』


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