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初体験

(平成二年五月)

 つい最近うちにもビデオデッキが備えられることになった。以前にあったものは下の娘が持って行って、アパートのひとり住まいの友として使っているので、たくさんとも言えないがあるテープは何の役にも立っていなかった。主人がデッキを持って帰ってきたその日に上の娘がテレビに接続してくれたので、わたしは心ひそかに「よし、これであの『薔薇の名前』の映画をみよう」と思った。本の帯にこの映画のあることが書かれていたのを見たときから、ぜったいに見ようと決めていたのであるが、そのときにはまだデッ キがなかった。しかし、とくにたのんだわけでもないし、これが見たいからと話したわけでもないのになぜかデッキがうちにきたのである。
 一年あまり前にできたレンタル・ビデオのお店が近くにある。あの店に『薔薇の名前』のテーブがあるかどうかはわからないが、とにかく行って聞いてみることにした。いつもは通り過ぎるそのレンタルショップへ車をいれて、気分よくオートドアのお店にはいった。
 わたしには初めての経験である。 目移りするなどという生やさしいものではなくフロアに並べ られているだけでもテープ数千本、CD数千枚という感じで、求めるテープがどの区分にはいるのかを飲みこむまでにはちょっと時間がかかる。 分類の方法は数分のうちにわかったが目的の一本を探すのはむずかしい。
 お店にいた髪を脱色してはいるが気の弱そうなおにいさんに、在庫のリストがあるかどうかを聞いてみた。お客さまの望む品がお店にあるかどうかと いうことに即答えられるという条件を、このような店のたとえオーナーにしろ、人に求めるのは無理である。いくら記憶力のいい人でもこの、おそらくは万単位のテープのひとつひとつを頭にいれることはむずかしい。 かくして、人間の頭脳のかわりをしてくれるコンピューターが必要不可欠のものとなっている。
 わたしがいった題名のテープが、ほどなく目の前にあらわれてわたしは思いがけず簡単にみつかったことを喜んだ。これならいつかA君がいっていたカミュの「異邦人」もあるかも知れないと思ってたのんでみた。
 利用するのは初めてであるので、まず入会の手続きをしなければならない。簡単にすむ。書くべきことを書いてペンを置き前を見ると、ディスプレイの画面を見ながら、赤い髪の気弱君が何かとまどったような表情をしている。どうもに附に落ちないというような顔をして中にいる人を呼びに行き、ショートカットの女の人といっしょに出てきた。ショートカット嬢も先の気弱君と同じ表情をして中にはいり、さらにこんどは目鏡の君を連れて出てきた。前のふたりよりは年上だけあって、目鏡の君はわたしの方をチラとみて何かふたことみことショートカットさんに言って「わかるね」 と言うとすぐ奥へひっこんだ。
 「あの『異邦人』っていうのあるんですけど、ちょっと違うんです。」とショートカ ット娘。
「あ、カミュのじゃない『異邦人』ってあったんですか?」
「あ、あの・・・これアダルト・ビデオなんです」
 さっき映画のテープを見ていてこっちにあるかも知れないと一番奥の方へ行ってみると、そこはわたしが最も用のないコーナーであることがひとめでわかった。このお店の売上げの、おそらく数十%をこの類いのテープが稼いでいるのであろう。
 一金八百円也を払って、テープは明日返すからといって出て来た。入会金三二百円、テー プの一泊料金が五百円である。
 実をいうとこれまでひとりでビデオ・テープを見るための操作をしたことがなかったが、画面の表示を見ながらなんとか映像も音声も正常にこの映画を楽しむことができた。
 さて、映画は本とは若干ストーリーの運びかたが違っていて、いくぶんはしょられている感じであったが、おおむねエーコの本音を前面に押しだし、また快いユーモアも見てとれ、ショーン・コネリーのウィリアムはいい配役であると思う。
 アドソがウィリアムに「人よりも本のほうがだいじなのですか」と反発する場面があって、それに対応する場面としてウィリアムが火事の中から僧衣の下に入れて持ち出した数冊の本を、ようやく火から出た彼を見つけて駆け寄るアドソと抱き合うときに落とす、というものがある。
 こういう場面を見るとわたしは思わずにっこりしてしまうのである。この映画を作った人と同じこの本の読みかたをわたしができたことにまず喜びを感じ、また映画からだけでは到底得ることのできない奥の深さを、ほんの入口だけにせよわたしは読むという行為を通して知っている。
 このビデオを見たおかげで、わたしは自分が間違った記憶によって「バラツキのある感想」を書いていたことを知らされた。あの文を書いたときには手もとに本がなかったこともあるが、人間の記憶の不確かさは 突然の事故によって働かなくなるコンピューターの融通のきかなきよりももっと普遍的でしかもその頻度が高い。さっそくに自分の間違いを正す必要を感じノートを開く。
 かの本はA君に貸し出したので、わたしの家には「一泊」 しかしないで長い「お泊り」にでかけている。
もちろんわたしはレンタル料などとらない。

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