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木が話していた

(平成六年四月)

 このところ、午後娘と交替してからはひとりで閑居山へ行き次の交替の時間までを過ごすことが多い。森林公園の駐車場に車を止めて、ただそこにいるというだけであるが、前の雑木林から聞こえてくるうぐいすの声に耳をすましていたり、持ってきたはっさくを食べたり、本を読んだりするくらいのことであるが、なにより静かなのがいい。
 先日A氏も言っていたが、この山のことを知っている人はあまりいない。ただ霊水だけが知られていて、国道の裏道の途中にあってたくさんの人がそばを通っているにもかかわらず、立ち寄ってみようという人の少ない山に違いない。
 今のところ足がまだ完全にもとにもどってはいないので登るのは控えている。ただ舗装されたところだけを行ったり来たりするだけであるがまわりが山、目の前にはひらけた景色、足もとには懐かしい小さな草花があるのでうれしい。人があまり来ないのもいい。
 少し先の道路のほうに極端に傾いている杉の木が一本見える。その姿は「長さ」十メー トル余りと形容するほうが適当なものであり、一風吹けば道路に墜落することが確実な斜面に辛うじてその根をとどめている。その一帯は明らかに植林されたところであり、ざっと見たところ五十本ほどの杉がある。どれも一様の太さで、その直径は二十センチくらいであろうか。下に生い繁っている雑草のためにそばに寄るのはむずかしいが、近くまで行けばもっと太いかも知れない。傾いている杉のそばに行こうと思ったのは、静寂の中に木の裂ける音がしたからであった。道路際の何本かはすでに折れた杉が二、三本ある。折口が痛々しくまるで傷口そのままである。
 裂ける音のしたのはおそらくその傾いていた杉であろうと思われた。どういうわけか下半分の皮が剥がれている。皮の下に白い肌がさらされていて、その木全体が今にも死にかけているように見える。満身創痍という感じである。やや下り坂になっているその林の前の縁石に腰をおろして、わたしは耳をすました。木の裂ける音をまた聞いた。そしてあることに気がついた。それはそのあたりの木が、傾いたその一本の仲間の杉のために嘆きながら話していたということである。

 この日の午後、半年前から予約購読をしているGEOマガジンが届いていた。 京都にある出版社の本であるがニュートンよりもアダ ルト向けで写真がすばらしい。もともとドイ ツの出版社の出している本であるから写真も たいてい外国の有名な(たぶん) 写真家によるものがほとんどである。撮影の角度の斬新さはほかの本とは格段の差があるように思える。
 そのGEOマガジンの、今月号の特集のひとつにアフリカ象の記事があった。「象は高度な社会生活を営む動物である。また、死の観念すら持っているように見える。ハイエナによって食い殺された年老いオスの周りに、若いオスたちが群れをなし、彼らは一日中、死体の臭いをかいだり、上に乗ったり、死んでしまった仲間を立たせようとしていた」
 こういう説明のつけられたグラビアが載っていて、夜間撮影されたらしい象の写真があった。象にかなり人間に近い感情の働きがあるのはさまざまの本やほかの情報源からすでに知られている。お葬式に似たような儀式さえするという話を何かで聞いたことがある。
 生きているものには、その頭脳の程度の高低にかかわらず仲間を認識し、その仲間同士にだけ通用するコミュニケーションの手段があると考えるのがどうも自然なのではないかと、このごろとくにそう思う。
 すずめはすずめ同士、犬は犬同士、ヒトはヒト同士という互いの種を認め、 なんらかの意志の疎通をはかろうという行動様式は植物の上にもそのまま成り立つ図式のように思える。ただ人間はそれがどのような方法でなされているのかを知らないだけではないか。
 ミツバチは自分がみつけた蜜源を、巣にもどってからある種の特別のダンスをすることによって仲間に正確に知らせることができると言われている。方位、距離のほかその途中にある障害物に関する情報さえダンスで細かく知らせているのではないかと思える。 ミツバチやアリはとくに高度な社会生活をする昆虫として知られているが、単独で生きている動物や昆虫にしても、同種であれば共通する情報伝達の手段をもっていると考えられる。植物においてはそれがないと、だれが断言でき得ようか。
 出かけに象の記事を見てそれが頭にあったからというわけではなく、わたしは杉の木の一群がそのほかの場所に植えられた杉たちとは明らかに違った動きで話しているのを見た。そのときの風力はゼロという状態ではないが、かと言ってひどく吹いていたというわけでもなかった。植林された杉は、その葉がついているのは木全体から見ると上二割程度のところだけである。下の八割はところどころに小枝を張ってはいるが、それらは風の力をほとんど考える必要のないまばらさである。従って最も風を受けるのは葉のたくさんついている上の方で、ごく少しの風でも確かに木全体が動くほどの抵抗を見せる。わたしが気づいたのは傾いた杉のごくそばの何本だけがざわめくように揺れ、そのまわりにある同じような杉の木がとくに風に反応していなかった、ということである。
 道路からはやや中にはいった場所の、半円形になっているところにそれらの杉が植えられているのであるが、風を同じ条件で受けて、その枝が示す反応があまりに違うというのはどう考えてもふつうではない。わたしにはレイノルズ数というのがまだよくわからないから、このわたしが見た異様な現象 が流体力学に沿った動きであるのかどうかは判断することができない。つまり、閑居山というごく低い山の中腹の、ああいう場所に植えられた杉の木がどのように風の力を受けてその枝をどのように動かすようになっているのか、という決まった法則を知らない。天候によっては上昇気流の発生する場所であるかも知れないし、その上昇気流はあの傾いた木のそばの数本だけにある動きを与えたものかも知れない。またその逆の可能性さえある。とにかく物理的な法則に従って木が動いたのかどうかはわからないということである。
 わたしが見たときには、ただ葉のついている部分だけが風に揺れたのではなく、その木全体がほとんど根元から揺れて、それはまるで死にかけている傾いた杉の余命を惜しんで嘆いているように揺れ騒いでいた。少なくともわたしにはそういうふうに見えた。
 
 人間は、ずっと大昔には今よりもたくさんの能力に恵まれていたという。視力や聴力、体力そのものは文明が発達するにつれてどんどんその力を失ってきてしまっている。 文明の発達した都市では夜でも明りのないところはなく、漆黒の闇の中で生きるための獲物を見分ける必要などまったくなくなっている。文明の利器は人間からさまざまの本来の能力を奪い去っているといえる。現在でも、アフリカに住む多くの原住民の視力は秀れていて、とくに遠視というわけではなくても二キロ先に立っている人間を識別することのできる人は珍しくないということである。必要が彼らの能力を維持させているのである。
 感覚ばかりでなく、いわゆる超能力と言われるものもまた同様であろう。それを必要としない社会に生きていると、自然にその能力を司る部分が退化してしまうということであろうか。また昔からの言い伝えやおとぎ話に自然との関わりをあたかも人間との関わりのごとくに扱っているものが多いが、これはあながち人間の願望によるものだけではなく、ことばが成立しはじめたころの人間に備わっていたいろいろな秀れた能力に基づいている事実であったかも知れない。

 左右合わせても視力が0.5ほどしかないわたしもまた文明に毒されている人間のひとりであるが、それを補うだけのほかの能力はまだそれほど失ってはいないと自負している。それはすなわち物事を深くみつめて、それについての考え得る限りの思素を巡らすという ことである。あらゆる面からの可能性を鑑みて、さて結論は、というとこれが明確に出せないところがわたしをしてわたしたらしめるところである。

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