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肖像

二十歳の頃に聞いていたロックバンドの曲を数年ぶりに再生する。走り出す前奏、退廃的な金属音がヘッドホンから鳴り響き、痛みを伴う類の懐かしさが急速に身体を満たしていく。

どこにいても、誰と居ても、何をしていても苦しかった。どうして自分がそうなのかまったく理解できなかった。傷ついては凶器のように他人を攻撃した。誰かを愛することなんて私には不可能なのかもしれないと思っていた。

あの頃と同じように、ひどく掠れた声で彼は私に問い正す。その問いは私の体に巣食っている歪さを否応なく突きつけて来るような気がした。

あれから私を取り巻く環境は大きく変化した。私だってもうあの頃の私ではないはずなのだ。
それなのに、目の前にいる人が一体誰なのか、今いる場所が過去なのか現在なのかよく分からなくなる時がたまにある。
進歩は幻想だろうか。
実のところ私は、同じ円環をくるくると廻り続けているだけなのだろうか。
あの頃の自分に微笑みを投げかけることも出来ずに、呆然と立ち尽くす。
私は一番最初に作り出した感情を幾度も繰り返しながら生きている。
せめて螺旋階段を登っているのであって欲しいと切望しながら。

眠りにつこうと暗闇の中でぼんやりしていると、夕焼けに染まる美しい海のイメージが鮮烈に浮かんで来ることがある。
悪い夢を見た日の朝も決まってそうだ。
その光景はいつもどうしようもなく私を懐かしい気持ちにさせた。
けれど、そういったセンチメンタルな感覚は誰もが持っているものなのだから特別気にとめることではないと、投げやりに思っていた。

その海が幻の光景ではなく、私の記憶の中にある海だったのだと理解したのは最近のことだ。

幼い頃に海のそばで暮らしていたことがある。窓からは眼前に広がる瀬戸内海が一望できた。丸く穏かな島々が点々と浮かび、大きな船がゆっくりと水面を渡っていく。
夕暮れどきには、この世のものとは思えないほど美しく燃えるオレンジ色の海。
悲しい時も苦しい時も、私達家族の生活には海が寄り添っていた。

ありふれた記憶の破片。
その暮らしが失われたのは私が三歳の時だ。
あの海に未練なんてあるはずがないのだと思っていた。

いつだって、ここではないどこかに帰りたかった。
いつも何かを探していた。
東京の街の中に、誰かの胸の中に。
あらゆる場所を彷徨いながら私が求めていたもの。
永遠に失われてしまったあの海。
実のところ私は私のことをどれほど理解しているのだろう。
今、真実に思っていると信じていることも、実際には本当に思っていることではないのかもしれない。

きっとこの世界に生きる誰もの中に、叫びたいほど懐かしい場所があるのだろう。
静寂の中で耳を澄まさなければ聞こえないほど微かな声で、あの海は語りかけてくる。
機械的とも思えるほど何度も脳裏を過るそのイメージを辿れば、感情の根源に行き着くことができるのだろうか。
幾度も繰り返される内的な問いに、答えを見つけてやることができるのだろうか。

2014.11.06

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