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30年後の1月17日の朝
神戸市民にとって忘れられない日がやってきました。
おそらく神戸淡路の震災被害を負っていない人にとっては、いつもと変わらない一日のスタートです。
あの日のことを今まであまり深く語ったことがありません。それは、まだ言語化出来るほど自分の中で消化できていないからだと思います。
聞かれれば、他人事のように客観的に言葉を紡いできた気がします。
今年で30年が経ち、ふと自分自身も気持ちと向き合うときなのかなと昨年末くらいから感じるようになり、一旦ここで気持ちの整理をしようと思い、この画面に向き合っています
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初めてこの1月17日に、この地にきました。
今まで向き合えなかったということを表しているなと感じます。
ここから4、5分の事務所で働いていますが、ずっと来れませんでした。きっと向き合うのが怖かったのではないかな。
あの日私は、神戸市垂水区で被災しました。
地響きのような音
すぐに下から突き上げられる縦揺れ
冗談ではなく、怪獣の卵が孵って怪獣が生まれたんだくらいの揺れでした
震災が起きたのが月曜日の早朝
私の父親は。末期がんで週末だけ実家に戻り,この朝,ポートアイランドにある病院に戻るはずでしたが、ポートアイランドへ行く大橋が崩れて通行止め。自分たちが考えていた通りには進まない日常へと変化しました。
父親はそれから1ヶ月ほどで亡くなりました
非常用電力での暖房、菓子パンと牛乳の病院食、薬もあまりなく対処療法での投薬のみ、
でも、父親は何も言わず「痛い,苦しい」ということを口にすることはありませんでした。
「震災でみんな、大変や」と自分に言い聞かすように言っていたことを思い出します。
亡くなった時、お世話になった医師や看護師さんが見送ってくれたこと、葬儀まで7日間も自宅で待機しないと斎場の予約が取れなかったこと、その間一緒に家族と過ごした時間、今でも次々に鮮明に思い出されます。
そして今も、父親は震災に遭わなければもう少し生きていたのだろうかと考えることがあります。
おそらくあの時を生きた人たちは、それぞれにその鮮明な思い出と「もし、 〜たら、」の思いを胸に持って生きているのではないでしょうか。
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今、私は
家族を作りたいと思っている人たちの応援サポートをしています。
あの時確かに「一人でなくて良かった」と感じたし、人は一人で生きていけないとも実感。
あの時ほど人とのつながりを感じたこともなかった。
震災のことを思い出すと、そんな人の温かい温もりとその真逆の言葉にならない胸の奥の辛い感情とが共存している。
きっとこれをかかえてこれからも生きていくんだろうなあ。
色褪せることがない私の人生の1ページです。
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