#25 「18.44m」(5/6)
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投げる気になったことをすぐにでも溝内に伝えたかったが、考えてみれば私は溝内の連絡先を知らなかった。会うときはいつも向こうが勝手に来るときだからだ。よって溝内とあの喫茶店で会ったのは一週間後のことだった。溝内はいつもと同じ鼠色のくたびれた背広を着ていた。他に持っていないのだろうかと余計なことを考える。
私はまず殴ってしまったことを詫び、それから自分の意思を伝えた。前の晩にしっかりと頭の中でまとめたつもりだったが、いざとなると妙に緊張してしまい、かなりたどたどしい決意表明になった。それでも溝内はこれでもかとばかりに目を見開き、驚きと嬉しさが同居した複雑な表情を見せた。
「ほんまかタクさん、ほんまにやってくれるんか」
「間に合うかどうかは解らないけど」
「アホ。そんなん間に合わせたらええんや。そうかやる気になったか。ほな、向こうにも連絡しとかな。伝説のエース、外ノ池卓司の復活やで」
「そんな大げさな」
苦笑いの私をよそに、溝内は携帯電話を取り出して誰かと連絡を取ろうとした。しばらく待ったが相手は出なかったようで、「ま、後で直接言えばええか」とそのまま電話を切った。
聞き覚えはあるが、曲名は知らないクラシックが流れていた。この日も他に客はおらず、マスターは暇そうにスポーツ新聞を読み、窓から見える楡の木々が雄々しく伸びていた。木漏れ日が地面にやさしげな陰影を作る。
「義郎さん、何か頼むかい」
私はメニューを渡す。遅れてきた溝内には水さえ出されていなかった。しかし溝内は何もいらないと言った。
「どうして?今日は俺が払うよ」
「そんなんいらんて。むしろおごらなあかんのはこっちやし」
「いや、でも」
「まあ、そこは色々あるんやて。そんなことよりもな、これ見てみ」
溝内は内ポケットから数枚のメモ用紙の束を出した。「これや。サボるんやないで」と渡されたそのメモ用紙には、先の丸まった鉛筆で書いた小さな文字が連なっていた。溝内は既に練習内容もあらかた決めていたのだ。几帳面なその文字を見ているうちに、その昔、溝内が現役の新聞記者だった頃、取材内容を書き込むのに短い鉛筆を器用に走らせていたのを思い出した。ある種の懐かしさに包まれながらメモを見ると、その中身は柔軟体操に始まり、果ては五十キロ走や三百球の投げ込みなどを毎日行うという、呆れるくらいに厳しいものだった。もちろん私は強硬に反対した。こんな無茶な練習は現役選手だってやらない。「これくらい出来ると思ったんやけどなあ」と最初は渋い表情を見せていた溝内だったが、私の抵抗に押されたのか、渋々変更することを了承した。
「とにかく、すぐにでも準備せんと間に合わんで。少しずつで構わんから身体は動かしときや」
そう言いながら、溝内は帰り支度を始めた。
「義朗さん、もう行くのか」
「当たり前や。これから向こうに行かな」
「俺も行ったほうがいいんじゃないのか?」
「ええわ。全部こっちがやっとく。それじゃな」
おごると言っておきながら、溝内は今回も払わずにいなくなった。
やると言ったものの、果たしてそんなことが今の自分に出来るのか自信はまるでなかった。準備をする時間は限られている。十二月の中旬と言えばもう数ヶ月しかない。その間に身体にこびりついた錆を落とし、投げられる状態に仕上げるのは至難の業に思われた。現役を辞めてから一度も投げていないのだ。今となっては、自分がどう投げていたかさえも思い出せない。
温くなったコーヒーを一口飲む。とにかく、溝内の残したメモを基に練習メニューを決めねばならない。書いてあることは常軌を逸しているので、色々と変更する必要がある。こんな老いぼれでも続けられる内容にしなくてはならない。さて、どこから手をつけたらいいものか。
「……あれ」
ついさっきまでここにあったはずのメモが見当たらなかった。一体どこにあるのか。あれは私の手元になければ意味をなさないので、溝内が持って帰ったとは考えられない。何かの拍子に落ちたのかもしれないと思い、テーブルの下に潜り込んだ。しかしそこは想像以上に狭く、うずくまる格好だと左膝の痛みが気になり、そのたびに身体を揺するので、背中にテーブルの裏がぶつかり、コーヒーカップなどがかちゃかちゃと音を立てた。
「あの、お客さん?」マスターがカウンター越しに声をかける。
「どうかしましたか?」
「ああ、ここにあったメモ紙を知りませんか。さっきまでここにいた人が書いたものなんだが」
「さっきの人?」
「そうです。確かにあるはずなんだ」
そうこうしているうちに腰まで痛くなってきた。しかしいくら目を凝らしても目的の物は見つからなかった。試しに内容を思い出そうとしてみたが、具体的なことは覚えていなかった。あれがないと、次に溝内に会うまで私は練習できないということになる。それはいけない。若い時分ならまだしも、今の私にそれほど時間の余裕はない。実際にきちんとトレーニングしたところで投げられるという保証もなく、当日になって無理だったなどと言えるはずもない。
焦りに私は立ち上がろうとした。しかし身体がテーブルの下から完全に抜け出さないまま起き上がってしまい、そのままテーブルを倒してしまった。ごつんと鈍い音がした。コーヒーカップと水が入っていたグラスは割れなかったが、両方の中身が床にこぼれた。
「いいです、そのままで」
うろたえる私を尻目に、マスターは手際よく雑巾で床を拭き、テーブルを元に戻した。手伝おうにも出来そうなことは何もなく、黙々と作業をしているマスターの斜め後ろで、ひたすら居心地の悪さを感じていた。
一通りの作業を終え、マスター「おかわりはどうします?」と聞いてきたが、とてもそんな気分にはなれず、私は小さく首を振った。
会計を済ませて外に出た。後味の悪さが口の中で苦く残っていた。あのマスターは表にこそ出さなかったが、内心は怒っていたに違いない。もうこの店には来られないと思った。
重い足取りで帰宅の途につく。左膝が痛い。すこし引きずるようにして歩く姿は、傍からはとても数ヶ月後にマウンドに立つ人には見えないだろう。ほの暗い不安な気持ちが再びよぎる。
途方にくれてしばらく中島公園の周辺を歩いていると、足裏に何かを踏んだような感触を覚えた。それは重なったままくしゃくしゃに丸められたあのメモの束だった。何故こんなところにと思ったが、疑問よりもメモを見つけた喜びの方が勝っていた。私はそっと拾い、一枚ずつ丁寧に広げ、指の腹で出来るだけしわを伸ばしてからもう一度まじまじと鉛筆書きの文字を見る。
「……こんなに出来るわけがないだろう」
思わず笑みが浮かんだ。そしてメモをそっとポケットにしまった。見上げると空は青い。夕方というにはまだ早い時間帯だ。日差しも充分に勢いが残っている。このまま帰るのはもったいない気がしたので、少し遠回りして足腰を鍛えようと思った。
*****
ええかタクさん。いくらプロって言うたかて、いつも絶好調とは限らん。ノムさんや杉さんだって不調のときがあるやろ。もしお前がプロで長いこと通用する選手になりたかったら、そんときのあの人らを見てみい。ごっつ勉強になるはずや。不調のときの過ごし方で一流か二流かがはっきり解るんや。囲み取材なんかでは絶対に解らん。そんなん話すわけないやん。でもな絶対に何かあるんや。お前はそれを見つけろ。……アホ、俺のためやない。お前のためや。お前自身が一流の選手になるためにや。今か?今やったらなあ……、とりあえず走っとけ。走って走って走りまくって足腰鍛えろ。……あ、それロンや。悪いな。ごっそうさん。
*****
「おじいちゃん、早く投げて」
少し離れたところで拓海が手を上げた。左手には青色の子供用グローブがはめられていた。私はゴムボールをそっと投げた。拓海が両手を差し出して捕球しようとするも、ゴムボールは小さな身体を素通りし、乾いた茶色の土の上を転々とした。拓海が何かを叫びながらそれを追いかける。
「孫はええなあ。無邪気やし、何しろこっちに責任があらへん」右手をひさしのように額にかざした溝内が目を細めて言う。
「ま、それもいずれすぐに邪魔もん扱いされるんやけどな」
「それは義郎さんのところだろ。俺は違う」
「アホ言え。そんなんどこもおんなじやで。なあ静江さん」
「さあ、どうなんでしょう」
「静江、そこは違いますって言うところだ」
「あ、そうでした。すみません」
静江が小さく笑う。つられて私も微笑んだ。
練習を始めて二ヶ月が過ぎた。夏の暑さはすっかり影を潜め、吹く風は日を追うごとに涼しくなってくる。陽光もどことなく柔らかく、街中が秋の装いを見せていた。
自宅近くにある、閉鎖した製菓工場に隣接したグラウンドが私たちの練習場だった。さすがに中島公園は無理だと溝内がどこからか話をつけてくれたようで、自由に使用してもいいとのことだった。溝内がどうやって話をまとめてくるのか不思議だったが、本人は「それはこっちの役目や。タクさんは気にせんでええ」と教えてくれない。こちらとしては練習場が確保されているのでありがたいのだが、グラウンドの状態はお世辞にも良いとは言えなかった。長年放置されていたために手入れは殆どされてはおらず、地面のあちこちがひび割れていた。雑草も伸び放題で、まずは草取りから始めねばならないほどだった。屋根のないダグアウトには白のペンキが剥げかけてぼろぼろの古い椅子が並んでいた。もちろん整ったロッカールームなどあるはずもない。現役当時の中百舌鳥球場でさえここまで酷くなかった。
こんな場所で私は老いた身体を動かしている。最初は思い描いていた動きが出来ずに難儀したが、それでもここ数日は幾分ましになってきた気がする。まずは準備がてらグラウンドの外周を歩くところから始めて、次は早歩き、そして小走りと進めていく。左膝の状態によって違うが目標は三周。これでじっとりと汗ばんでくる。その日の調子に合わせて決して無理はしない。身体が温まってくるとつい無茶をしがちになるが、それは溝内や静江が上手く管理してくれた。
柔軟体操の後はキャッチボールだ。あの日静江と買ったグローブをいつも使っている。いきなり硬球は肩を壊す危険があるので、主にゴムボールを投げている。まずは拓海と3メートル程の距離をソフトボールのような投げ方で数回やり取りをし、それからは溝内を相手に少し強めに投げながら、徐々にその距離を伸ばしていく。マウンドからキャッチャーまでの距離は18.44メートル。その間で生きた球を投げることが最終的な目標だ。しかしそのために超えねばならない壁はいくつもある。いつも溝内に「こんなんで間に合うんか」とからかわれている始末だ。それでもワックス塗りの仕事とは明らかに異なる疲労を感じると、その充実感は比べようもなかった。
ゴムボールを持った拓海が戻って来た。「おじいちゃん、行くよ」と私を真似た格好で投げようとするが、手足の動きが不揃いでどうもぎこちない。案の定、放たれたボールは見当違いのところに飛んで行った。
「あの子はアカン。才能あらへん」
「何言ってんだ。まだ解るわけないだろ」
「いいや解る。絶対あの子はアカン」
身も蓋もないことを言う溝内の脇腹をグローブで軽くつついた。
静江がボールを拾って来て、拓海に手渡した。
「さ、もう一度。おじいちゃんに投げて」
「うん」
小さな手から放たれたボールの軌跡が私と孫を繋ぐ。何度か繰り返しているうちに、拓海も少しずつ要領を得て、受ける投げるといった一連の動作が随分と滑らかになった。
「わあ、拓海君お上手」
「才能はあらへんけどな」
「よし、もう一丁だ」
これだけでも私には信じられない出来事だ。自分と血の繋がった者とキャッチボールをしている。こんな日が来るとは夢にも思わなかった。念願のプロ選手になり、初勝利をあげ、飛躍しかけた矢先に賭博事件に巻き込まれ、野球界を追放された。その後は失意の中で静江と出会い、所帯を持ち、貴子が生まれ、それは拓海に受け継がれた。私にその後を見届ける時間はそう多くは残されていないだろう。それでもいい。孫に外ノ池卓司という存在の一端を垣間見せることが出来ればそれでいい。妻と娘に自分のごく短い期間の歴史を記憶の片隅に置いて貰えたらそれでいい。私は名誉の回復のためだけに投げるのではない。失った自らの時間を取り戻そうとしているのだ。
「タクさん、そろそろあれ、いってみるか」
「あれ?」
「静江さん、頼むわ」
「はい」
静江が持参した鞄の中から真新しい硬球を取り出した。これも静江と一緒に買ったものだ。「どうぞ」と私に手渡す。
「いつまでもゴムボールちゅうわけにはいかんやろ」
「義郎さん、いいのかい」
「いいも何も。タクさんが投げんと始まらんて」
何度か手のひらで転がしてみる。しっかり握らないと滑りそうだ。
溝内が「さ、いこか」と威勢よく言った。いつの間にか左手に古びたグローブをはめていた。私から十歩ほど離れた所に立ち、「こんなん使うの久しぶりやで」と呟いた。そして右手で拳を作り、捕球する部位を二度叩いてから両腕を大きく開いて構えた。
「それじゃ、行くぞ」
私はボールをそっと投げた。緩やかな放物線が溝内のグローブに収まる。乾いた捕球音が心地よく耳をくすぐった。
「ほう。なかなかええやないか」
「義郎さん」
「凄いですよ」
「静江」
「わあ、ストライク、ストライク」
「拓海」
「さ、次はあそこからや」
ボールを返しながら、溝内はグラウンド内のうず高く盛り上がった部分を指差した。しかし私はなかなか動けなかった。若い時分に何度も上がった場所のはずなのに。一時は自分の全てを捧げた場所なのに。しかし今はあの頃とはまるで違って見えた。これほどまでに神聖な場所が他にあるだろうか。そう思うと足がすくんだ。
「どうした?タクさんの投げる場所はマウンドしかないやろ」
私の答えを待たずに、溝内はホームベースの少し後ろに行き、蹲踞の姿勢を取った。
「ここってキャッチャースボックスって言うんやろ?ラインも何にもなくて殺風景やな。こんなところでタクさんの復活の第一球ってのも申し訳ない気もするんやけど、でも今俺は興奮してんのや。タクさんの投げる球を俺が受けるんやで。俺、ノムさんみたいやろ。わくわくするなあ。……ほら何してんねん。はよ上がれって」
溝内の声に促されてマウンドに立つ。ぐるりと球場全体を全身で感じる。18.44メートル先に溝内がいた。今の私にどれだけの投球が出来るかは解らない。それでもこうしてマウンド上にいるという事実に興奮していた。胸が押しつぶされそうだった。あの事件に巻き込まれてから全てを失い、二度と野球には関わらないと誓って生きてきた。しかしそれは自分を偽っていただけなのかもしれない。本当はずっとこの瞬間を待ち侘びていたのかもしれない。もちろん俄かには信じがたい。否、今だって半信半疑である。しかしそれを認めざるを得ないのだ。そうでなければ、この身体中から沸き起こってどうしようもない高揚感の説明がつかない。
右足で土を払って足場を整える。右腕をぐるんと大きく回す。肩が思ったよりも軽い。目を閉じて大きく息を吸った。乾いた土の香りがする。大歓声が聞こえる。そうだ。私はここにいたんだ。幾日も白球を追い、汗を流し、カクテルライトを浴び、対戦相手との勝負に神経を尖らせた。あの頃、私は紛れもなくプロ野球選手だった。
「義郎さん、行くぞ」
「おう。再来月はドームのマウンドやで」
「静江、見てろよ」
「はい」
ゆっくりと振りかぶり、左足を高く上げる。右腕を思い切り振り下ろす。徳さんに言われたように上体を倒し、腕が一番遠くに伸びた瞬間に手首を利かせてボールに回転をかける。指の引っ掛かりも申し分ない。そうだ、この感覚だ。
どこまでも遠くに投げられる。
確かにそんな気がした。(続く)
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