
#03 光
今となってはもう随分と昔の話。
月の満ち欠けを十万回繰り返すほど昔の話。
ようやく芽吹いた双葉が大樹に育つほど昔の話。
長く続いていた戦がようやく終わった。その間、不幸の連鎖は際限がなく、手に触れるものは全て乾いた砂のごとく崩れ落ち、目にするものは全て蝋が溶けるがごとく色褪せた。
「絶望を体現したいならこの場に立つがよい」
そう言い残して時の権力者は自ら命を絶った。かろうじて焼け残った街では、略奪、暴行など無意味で生産性のない犯罪が横行した。それを防ぐしくみなど消え失せていた。人々の心はすさみ、何もかもが狂い、それを元に戻す術を誰も探そうともしなかった。
夜。手つかずの森が息を潜めて辺りに広がっている。分厚い雲が空を覆っていた。雲は月明かりを遮り、天の川の流れをせき止め、星座から神話を奪った。静けさに寄り添うように、鈴の音が響く。
しゃりん、しゃりん……、しゃりん。
隙間をすり抜けて響くその音は、まばらな間隔を保ちながらその場に馴染んでいった。奥に誰かいる。輪郭がぼんやりと浮かび上がる。男だ。鈴を左手に持ち、あちこちに置いたろうそくに一本ずつ火を着けると、やがて周りは月明かりが降り注ぐのと同じ程度にまでなった。無数の炎がゆらゆらと不安定に揺れていた。男の影もそれにならって揺れた。男は地面に置いた二つの盃に酒を注いだ。透明な液面にろうそくの炎が映っている。……これで準備は整った。つぶやきにもならない声が漏れる。
男はこれからある儀式を行おうとしていた。
それは過去と現在の境目を曖昧にする儀式。
それは光と影の仮面を取り替えるための儀式。
それは万物の流れをせき止めるための儀式。
それはこれからも続く哀しみに向き合うための儀式。
それは……、会いたい人を呼ぶための儀式。
その昔、男は両親の反対を押し切って戦場へ赴いた。
そこでは細かな理屈は通用しない。生き残れば勝者になり、死ねば敗者となる。それだけだ。男は常に勝者だった。罪の意識など微塵もなかった。躊躇したその瞬間に勝者は敗者へと転がり落ちる。そんな瞬間を飽きるほど目の当たりにしてきた。だから数多くの敵を殺した。戦場では全ての行いが正当化された。
やがて戦が終わり、男は故郷に戻った。
そこで目にしたものはボロ雑巾のように道端に捨てられ、泥だらけのまま放置された両親の姿だった。父親の頭が不自然にねじれていた。母親の両腕と両足は千切れていた。あるのは腐りかけたただの肉の塊だった。戦を望まなかった両親が戦で命を散らし、戦を望んだ男がこうして生き残っている。それは余りにも皮肉な再会だった。
男は二つの遺体にかけより、抱き締めた。強烈な死臭が鼻を突く。それでも男は遺体に頬ずりするのを止めなかった。余りの哀しみに涙も出なかった。感情の支配が出来なくなった男は、それから三日間、ほとんど身動きせずに両親の遺体を抱き続けた。やがて父親の頭部が地面に落ちた四日目、男は街から姿を消した。
石が一つずつ積み上げられていく。大小様々な石が一カ所に集められ、うず高くなっていくそして一つ積み上げるたびにろうそくの炎を一つ吹き消した。鈴の音が男の身体を支えながら響く。
しゃりん、しゃりん……、しゃりん。
また一つ石が積み上げられる。ろうそくの灯が一つ消える。少しだけ闇の密度が増していく。
しゃりん、しゃりん……、しゃりん。
しゃりん、しゃりん……、しゃりん。
どれくらい繰り返しただろう。積み上げた石は男の腰の高さまでになり、ろうそくは残り一本となっていた。最後の炎が不安そうに揺れていた。
男がそっと息を吹きかける。
……しゃりん。
最後の鈴の音が完全なる闇を連れてきた。上下や左右などあらゆる方向が失われ、まっすぐ立っているのが難しい。男はその場に座り込む。地面と接する部分が多くなることで自分の場所を見つけた気分になる。
全てを終えたら目をつぶり、そのときを待て。やがて向こうからやってくる。その瞬間に感じたことに素直に従えばよい。
この儀式を行う前に男が教えられていたことだ。男はその言葉をひたすら信じ、微かな空気の流れでさえも敏感に嗅ぎ分けようとした。実際は目を開けていても大差ない闇だったが、両瞼をきつく閉じ、ひたすら息を潜めていた。闇は男から時間の感覚も奪っていた。数分、あるいは数時間。意識は深海を漂うように過去へと遡った。
それはまだ男が戦に赴くずっと前のこと。街は緑に包まれ、季節を彩る花が咲いていた。人々の笑い声は絶えることがなく響いている。ちょうど祭りの時期だ。男は母親に手を引かれて石畳の道を歩く。仕事を終えた父親とここで待ち合わせて、三人で祭りを楽しむことになっていた。買ったばかりの靴をみんなに自慢したくて、歩幅がいつもより大きくなる。
街の中心部にある噴水では多くの人が涼んでいる。水しぶきが舞い、日の光を受けて小さな虹があちこちで賑わいに彩を添えたその先に父親の姿が見えた。嬉しさのあまり駆け寄る小さな身体を、父親はいとも簡単に抱き上げた。途端に視線がぐんと高くなる。眩しく優しい視線を一身に浴び、男は子どもながらにこの幸せが永遠であると信じていた。
積み上げた小石の一つがコツンと地面に落ちた。その微かな音に男の意識が引き戻される。周りの空気が先ほどまでと違っているような気がした。細胞の一つひとつまで意識を覚醒させる。すると空気の流れは一定方向ではなく、狭い範囲で不規則に揺れているのが解った。それは人の動きによって生まれる流れに似ていた。その感覚が男の中で確信に変わる。こめかみに一筋の汗が流れた。鼓動がにわかに激しくなる。男はそれの行方を追った。
一人ではない。恐らく二人。積み上げた石の周りをゆっくりと回っているようだ。視線を向けられているような気さえする。頭の中を様々な気持ちが駆け巡った。想いの糸が複雑に絡み、どうしたらいいのか判断に迷う。謝りたいのか、甘えたいのか、話したいのか、見ていたいのか、そばにいたいのか、離れていたいのか、触れたいのか、触れられたいのか。男には解らない。ただひたすらそのときを待ち続けた。
どのくらい経っただろう。不意に、暖かい感触に包まれた。それはとても懐かしく、心の底から安心する温もりだった。男は頭を優しく撫でられていた。その疑いようのない事実に、瞳から涙があふれた。
男がそっと目を開けると、闇の中に優しくまとまった真っ白な二つの光が見えた。感じると言ったほうが正しかったかもしれない。それほど存在感が際立っていた。そして先ほど得た確信に違わぬ意志を光から感じることが出来た。
止めどなく溢れる涙を拭い、男は手を差し伸べる。指先がそっと光に包まれた。その絹のように柔らかく滑らかな感触に思わず笑みがこぼれた。
ようやく会えた。
頭を撫でられた喜びや、指先に感じる温もりが全てを物語っていた。男にとってこの瞬間が恐らく唯一の現実だった。
男は祈る。光に向かって。今まで奥にため込んでいた想いを。
あなたたちは懸命に働き、
全力で私を育て、
将来を想像しては楽しみ、
いとも簡単にその全てを踏みにじられました。
戦のせいで。いや、私のせいで。
道端に放り出されていたあなたたちを見て、
ようやく気付きました。
私がこの世に生を受けることを許されている限り、
その罪深き行いを悔いることでしょう。
こんな私を許してくれますか。
光の中で微笑む姿は
その答えだと思っていいですか。
今、このときだけ
あなたたちの子どもに戻って
少しだけ甘えてもいいですか。
想いに応えるように光が揺れる。一つも見逃さないよう目を凝らすと、その強さが少しずつ増していくのが解った。圧倒的な光に包まれる。男は再び目を閉じ、そして身を委ねた。身体が少し浮きあがっている。まるで抱き上げられているかのようだった。
ありがとう。
本当にありがとう。
再び涙が流れる。身体中を駆け巡っていた毒がすっと抜けていくような気がした。光が更に強さを増し、大きくうねる。男は解っていた。言葉なき対話を交わした今、まもなくこの光は消え、静けさと共に闇が戻るであろうことを。そしてこの再会が果たされることは二度とないであろうことを。
やがて瞼の奥で光がそっと立ち去るのが解った。闇が舞い戻ってくる。夜はいつものようにどこまでも深く、そして哀しげだった。
木漏れ日があちらこちらに陽だまりを作っていた。新しい一日が始まっている。あれだけ空を覆っていた雲は嘘のように消え、青すぎるほどの青空が広がっていた。瑞々しい空気が朝の森の中に充満している。
男は身体をくの字に曲げて穏やかに眠っていた。子どものように安心しきった表情だった。小さく繰り返される寝息に合わせて、森に棲む生き物の息吹が重なった。
横たわる男の周辺には、火が消えた無数のろうそくと鳴り続けた鈴、そして積み上げられた石の塔が昨夜と同じ場所でたたずんでいた。あれは果たして夢だったのか。そうではない。酒が注がれていたはずの二つの盃の中身が空になっていた。そしてその盃はお互いを慈しむように重なっていた。
まだ男は眠っている。やがては目覚め、その重なった盃に気付くだろう。そのときこの儀式は終わりを迎えるのだ。会いたい人に会えたという記憶だけを残して。
太陽が徐々に高くなり、それに合わせて日差しがじりじりと強さを増してきた。新しい一日がつつがなく過ぎていく。時折吹く風に揺られて鈴の音が響く。
しゃりん、しゃりん……、しゃりん。
その音が誰かの耳に届くことはなかった。もう既に男の姿はここにはない。どこかへ旅立ったのか。それとも生まれ育った街に戻ったのか。
その後、男がどのような人生を送ったのかは誰も知らない。(了)