#39 超個人的ショートショート(5)
誰だって秘密の一つや二つくらい抱えて生きている。
友人から借りた文庫本をこっそり売ってしまったとか、賞味期限の切れた食材を調理して客に出したとか、お腹の中にいる赤ちゃんの父親が、実は今のパートナーじゃないとか。
まあ、そんなのはバレなければいい訳で、黙ってさえいれば通り雨のように過ぎ去ってしまう。
一瞬、路面が濡れたとしても、いつの間にか乾いて、雨が降ったことさえ忘れてしまっているみたいに。
3.141592653589793238462643383279502884197169399375105820974944……。
私の秘密はこいつ。
私の部屋には喋る皿がいる。
食事のときに使う、どこにでもあるあの丸いお皿だ。
今日の奴は円周率をどこまで言えるのか挑戦中。
ちなみに昨日は歴代の天皇の名前を暗記すると言っていた。
皿は言う。
ああ、疲れてきました。それにしても円周率って神秘的だと思いませんか?どんな大きさの円だって、円周を直径で割ると同じ数字になるんですから。しかも決して割り切れることはない。正に神が決めた割合です。そして、そんな素晴しい体形をしているのが……、この僕です。はっはっはっはっは。
いつもこうだ。
この間は命の輪廻についても語っていた。
命は時代を超えて輪廻という円を形作ってつながっているんだと。
だから円は素晴しいのだと。
あ、そうだ。今日はお仕事、見つかりましたか?……ダメでしたか。そうですよね。学歴もない、何の取り柄もないあなたに似合う仕事なんて、なかなかないですよね。だから言ったでしょ。今の仕事は辞めないほうがいいって。僕の言った通りになったじゃないですか。やっぱり人間も使い勝手が良くないといけないんですね。それに比べて僕は最高だ。滑らかな曲線が無限に続いているようなフォルム。和洋中どんな料理でも見栄えする白い肌。ああ、なんて僕は美しく、優秀なんだろう。知ってました?円は神に選ばれた万能な形なんですよ だって『全て丸く収まる』って言うじゃないですか。あらゆるところから角が取れたとき、困難だと思われた事柄も雪が溶けていくように解決していくんです。それに、コインが何故丸いか知っていますか?あれは丸いお金をやり取りすることで、物事が上手くいくからなんです。
え?お札は紙じゃないかって?本当にあなたは浅ましいなあ。考えてごらんんさい。だからお札に関する哀しい事件が起こるんですよ。あの四角い形が、もっと言えばあの四つの角が人の心を惑わせているんです。いっそのこと、お札も丸くしてしまえばいいのに。そう思いませんか?
信じられない、ナルシストの皿なんて。
喋っているときの陶酔しきった表情がいちいち癪に障る。
私からすると詭弁としか思えない話を、皿はそれこそ私が眠りにつくまで延々と続けるのだ。
時には反論を試みることもあるが、皿はびくともしない。
あなたにそんなことは言われたくありませんよ。仕事もなく、お金もなく、ただのんべんだらりと生きているあなたよりは。生活の基本は毎回の食事からだというのに、あなたの場合、その貧相なことと言ったら。せっかく美しい僕の姿が台無しだ。あれはまともな生活を営んでいる人の食事ではないですね。しょうもない反論は無用です。それは身体の上に食材を乗せている僕だからこそ、一番よく分かっているんですから。
そうやっていつも言い負かされてしまう。
皿のくせに人間に説教するなんて、なんて生意気なんだろう。
皿は皿らしく黙って使われていればいいのだ。
食事時だけ光を浴び、泡まみれになり、後は食器棚の奥でひっそりと出番を待つだけの毎日を送っていればいいのだ。
それを色々と口出ししてくるのだから腹が立つ。
そして言われたことに対してまともに反論できずにいる自分自身にも。
3.141592653589793238462643383279502884197169399375105820974944……。
また円周率を唱え始めた。
無限に続く数字の羅列。
割り切れないと知っていながら、人はなぜ計算を続けるのだろう。
相手よりも少しでも前へ出たいという自己顕示欲の表れか。
それともいつか割り切れる瞬間が訪れるかもしれないという、少年のようなロマンチシズムか。
どちらにしても、今のあたしには不必要な代物だけれど。
僕が思うに、人は多くの悩みを抱えて生きています。一つが解決した次の瞬間には、もう別の悩みが生じていて、言うなれば悩んでいることこそが真の自分であると感じているかのように。悩みの無限ループ。それはこの円周率を飽きることなく唱えている行為と同じようです。3.14、3.1415……。どこで止めてもいいはずなのに、人は悩み続けている。仕事やお金や恋愛に関していちいち角を立て、円の素晴しさを忘れている。みんな僕のように丸くなればいいのに。どこからスタートしても必ず元の場所に戻ってくる円になればいいのに。
円は安心をもたらす。
円は心をまろやかにする。
円は心地良い眠気を誘う。
円は現在と未来を結ぶ。
円は過去を美しく飾る。
そして、円は………………、
突然の静寂。
気が付けば目の前が真っ白な煙に包まれていた。
指先に冷たい硬質な感触が残っている。
そして自分でも驚くほど動悸が激しくなっている。
早くしないと窒息してしまう。
そんな強迫観念にも似た気持ちで呼吸を繰り返した。
徐々に酸素が身体に取り込まれていく。
それは乾ききった地面に水が染み込むような感覚だった。
真っ白な煙が引き潮のように薄くなり、やがて視界が元に戻ると、そこにあの丸い皿の姿はなかった。
あるのは粉々になって床に散らばっている破片だけ。
皿はもう何も言わなかった。
皿なんだから当たり前だ。
私は破片を拾い集める。
しばらく拾っていると、薬指から血がぷっくりと出ているのに気が付いた。
時間差で訪れる鈍い痛み。
「3.1415926535897……」
ここまで真似してやめた。
部屋の中がこんなに静かだったなんて、今まで知らなかった。
(写真:KamranAydinov</a>/出典:Freepik)