#29 海辺のミュー (3/3)
海で過ごす以外の僕の生活はほとんど変化がなかった。学校にいる間は誰かと話すことはなかったし、相変わらず不良グループには苛められていた。その度に僕は歯を食いしばって耐えた。もう少しで解放される。それまでの辛抱だから。僕の身体には親にも見せられないたくさんの痣があった。正に傷だらけの少年時代を過ごしていたと言っていい。
学校から帰宅すると、僕はいつものように自転車に乗ってミューがいる海へ向かった。まだ少し距離があるにも関わらず、僕の鼻腔はもう潮の香りを感じている。
しばらく走っていると、あの不良グループに遭遇してしまった。ペダルをこぐ足が鉛のように重くなる。彼らは僕を見つけると、獲物を見つけたとでも言わんばかりにニヤニヤと笑った。もしかすると、僕を待っていたのかもしれない。僕の足が完全に止まる。それを見て彼らが近づいてくる。脇の下に妙な粘り気のある汗が流れた。
不良グループは僕を取り囲み、あれこれと難癖をつけた。僕がただうつむいていると、一人がつま先で僕の自転車を蹴り、他の一人がハンドルをつかんで大きく左右に振った。囃し立てる声と自転車の蹴られる音が僕の鼓膜を不安定に刺激する。
突然、背後から強い衝撃に襲われ、僕は自転車もろとも道路に倒れてしまった。誰かが僕の腕をつかみ、自転車から離した。そしてそれぞれが持っていた金属バットなどで横倒しの自転車を力いっぱい叩き始めた。金属同士のぶつかり合う音が何度も響いた。ライトが割れ、ホイールがねじ曲がった。カッターでサドルが切り裂かれた。最終儀式だと誰かが言い、五寸釘がタイヤにためらうことなく差し込まれた。タイヤは命を奪われたように弱々しく空気を吐き出した。
一通り破壊し終えて満足したのか、不良グループはその場を立ち去った。彼らがいなくなっても、あの惨劇の名残はあちこちに留まっている。僕は無残な姿をさらけ出す自転車をただ呆然と見ていた。十歳の誕生日に両親からプレゼントしてもらった大切な宝物だった。少し前まではあんなに軽快に走っていたのに。どうしてこんな姿に……。
「……ごめんね」
僕はつぶやく。
「守ってやれなくて本当にごめん。これじゃもう乗ることは出来ないね。君が痛い思いをしてるのに、何もしなかった僕を君は怒ってるだろうね。そして情けなく思ってるだろうね」
両方の瞳から心が火傷するような涙が溢れ出た。それは僕の頬を伝い、アスファルトの上に染みた。そのとき体内に悲しみとは別の、マグマが隆起するような感情が湧き出した。僕は喉を振り絞り、力の限り叫んだ。それは生まれて初めて感じる怒りそのものだった。
うなだれた自転車を引きずりながら僕は海を目指す。すっかり役目を失った宝物は、アスファルトとこすれるたびにガリガリと切ない音を立てた。
この自転車を最もふさわしい場所で供養してやろう。海に行くときに停めていたあの場所に埋めよう。このまま他のごみと一緒に捨てられてしまうのは耐えられなかった。だから僕は力を振り絞って自転車を引いた。日はどんどん傾き、大勢のカラスがねぐらに帰っていく。それでも僕はひたすら海を目指した。今日はもうミューには会えないと思った。
僕は考えている。強さとは何であるのかを。どうすれば強くなれるのかを。自転車を守ることが出来なかったのは僕が弱かったからだ。あのとき、僕にもっと勇気と強さがあれば、結果は違っていたかもしれないのに。そして僕は久しぶりの潮風を浴びている。あれから数日が経っても、自分を責め続けている。自分の勇気のなさを恥じている。
『強くなるのはそんなに簡単じゃない』
ミューがいつの間にか話しかけてきた。
『でも、考えようによっては強くなれるし、勇気も持てる』
「本当に?どうやって?」
『健太、お前は強さとはどういうものだと思う』
「……ケンカが強いとか、そういうことかな」
『お前は何にも分かっていない』
ミューの声が低く、そして厳しくなった。僕の身体が少し怯む。
『いいか、それは確かに見た目には強いかもしれない。しかし、それじゃお前を虐めている連中と同じだ。そんなのは本当の強さではない』
「……」
『自分が大切にしているものや愛するものを守りたいと思うことで強くなれる。優しさがないと強くなれないんだよ』
「でもそれじゃやられっぱなしだよ。もう殴られるのは嫌なんだ」
『勿論、自分の身を守るのも大事だ。しかし、優しさがないと強くはなれない。例えば、自転車が壊されて悲しかっただろ?強くなりたいのなら悲しむだけじゃなく、自分が守るという気持ちを持つんだ。それから、』
「それから?」
『それが出来たら全てを許すんだ。お前を傷つけた相手も出来事も全て。この気持ちがないと本当の強さを手に入れたとは言えない。例えやり返したとしても、お互いの心の中に感情の火種が燻り、いつかそれは歪んだ形で表に出てくる。そして再び醜い争いが始まる。それはどうしてだ?力ずくで表面だけの解決しかしていないからだ。許す気持ちを忘れているからだ。健太、強くなりたかったら許すんだ。心を大海のように広くして、全てを優しく受け止めるんだ。それが本当の強さというものだ。腕っぷしじゃなく、心の在り方に強さがある。いいか健太、本当に意味で強くなれ』
ミューはそれから黙ってしまった。僕はずっとミューの言葉を繰り返していた。自分が大切にしているものを守ること、そして全てを許すことが本当の強さだとミューは言った。子供の僕にはまだ難しい話だ。もし僕が全てを理解する日が来たとき、目の前にはどんな光景が広がっているのだろう。時間をかけて答えを見つけようと思った。
強くなれとミューに言われてから、僕の心の中で何かが確実に芽生えていた。数日後、また不良グループが絡んできたとき、僕は激しく抵抗したのだ。目の前にいた一人に体当たりを食らわせた。そいつは予想以上に軽く、すんなりと馬乗りになれた。圧倒的に優位な体勢だ。しかしここからどう攻撃していいのか分からず、ただ闇雲に両手を振り回すだけだ。彼らは予想外の出来事に驚いたようだったが、すぐに反撃を始めた。そうなると身体が小さい僕はひとたまりもない。多勢に無勢、あえなく僕はノックアウトされた。痛む身体を大の字に横たえた僕の目に、立ち去っていく連中の足が見えた。そのうちの一人は左足をやや引きずっていた。
大きく息を吐いて空を見る。真っ白な雲が人の気も知らずにふんわりと漂っていた。
「ごめんねミュー。まだまだ僕は強くないよ」
しかしそれ以来、僕に対する苛めはめっきりなくなった。あれだけ執拗に絡んできた連中が、完全無視を決め込んでいる。人間とはおかしなもので、実害がないのはありがたいのだが、その急激な変化に却って不安が増した。まだ陰で何か企んでいるのではないだろうか。
それを話すと、ミューは大声で笑った。
『そんな心配はしなくていい』
「どうして?」
『あいつらがお前の強さを感じたからだ』
「でも僕は負けたんだよ。やっぱり向こうの方が強かった」
『だけどな、弱っちいと思われていたお前が抵抗したんだ。相手だって驚いたろう。連中はお前の中にそんな力があることを知ったんだ。これは大きなことだ。もうお前を苛めることはないだろう。結果、お前は勝ったんだ。自分の手で、自分の居場所をつかんだんた。すごいじゃないか、健太』
ミューに褒められて、背中がくすぐったい。
『後は、連中を許すことが出来るかどうかだな』
「それなんだけど、実はよく分からないんだ。許すってどういうことなのかな。謝ってもらったわけでもないし、僕もどうしたらいいかわからなくて。……でも許したいとは思うんだよ」
『今はそれでいい。そう思うことが大切なんだ。許すってのは簡単なようで難しいし、勇気が必要だ。でも健太にはきっとそれが出来る。許す気持ちを持つんだ。それが健太の強さになる』
「うん、わかった」
『健太、強くなれ。本当の意味で強くなれ』
そのときのミューが心なしか寂しそうだったことに気が付くのは随分と後、つまり僕が大人になってからだった。
風の強い日だった。冬がすぐそこまで来ている。吹き付ける風は肌を刺すようで、痛みに似た感覚を僕にもたらした。もうすぐ初雪の便りが届く頃だと、教室の窓越しに重く広がる鈍色の空を見ながら僕は思う。
「……え?」
不意にミューの声が聞こえた、気がした。こんなことは初めてだった。いつもは海に行くと僕の周りが温かくなり、それが合図となってミューがどこからともなく現れる。つまり僕が海に行かない限り、ミューの声をきくことはないのだ。だから気のせいだったかもしれない。僕はそう思い、また窓に視線を送った。
海へ向かう。新しく買ってもらった自転車はとても調子がいい。ぐんぐん風を切って進んでいく。寒さに頬や手は冷たかったが、僕の気持ちは晴れやかだった。
いつもの場所に自転車を停める。そのすぐ横の、前に壊された自転車が埋まっている場所では、いつの間にか生えた雑草が背伸びをして自らの生命力を誇示していた。泣きながら自転車を埋めたあの日からの時間の経過を、無言の雑草が教えてくれた。
「ミュー、来たよ」
呼びかけても返事はない。波の音が絶え間なく聞こえるだけだ。
「健太だよ。近くにいるんだろ」
耳を澄ませてしばらく返事を待つ。やがて『……健太』と僕を呼ぶ声が聞こえた。
「ねえ、今日、僕に話しかけただろ。学校にいても感じたんだ」
『そうか』
どことなくミューの声が沈んでいるように思える。
「どうかしたの?」
『健太、元気にしているか?』
「うん」
『学校は楽しいか?』
「そうだなあ。楽しいって程でもないけど、前ほど嫌でもない」
『まだ苛められているのか?』
「ううん。だったミューが言ったんじゃないか。もう大丈夫だって」
『そうか。……そうだったな』
「本当にどうしたの?なんか変だよ」
ミューは何も言わない。すぐ近くにいるにも関わらず。僕はその歯切れの悪さに、少しずつ不透明な不安が広がるのを感じていた。そのとき一際強い風が吹き、波しぶきがここまで届く。そして僕はミューから信じられない一言を聞いた。
健太、お前とは今日でお別れだ……。
今度はこちらが黙る番だ。一瞬、聞き違えたのかと思った。ミューがいなくなるなんて考えたこともなかった。何か言わなければと思ったが、真っ白になった頭の中が激しくうねり、何も言葉が浮かんでこない。目に映るものが白と黒のモノトーンに見えた。僕の心が忙しなく揺れる。
「……どういうこと?」
やっとの思いで僕は言った。
「もう話せないってこと?どうしてミューとお別れしないといけないの?」
『健太だって分かっているはずだ。俺は本当にここにいる訳ではない。お前が感じているだけだ。存在のないものとずっと関わっていてはいけないんだ』
そんなことを聞きたいんじゃない。僕は何度も首を振る。
『最初に話した頃と比べて、お前は本当に成長した。見違えるくらいだ』
「だってそれはミューがいてくれたからじゃないか」
『これまではそうだったかもしれない。でも健太がもっと強くなって、もっと大人になるためには、いつまでも俺に頼っていてはダメなんだ』
ミューの言葉が僕の小さな身体に突き刺さる。切り口から流れた血でむせそうになった。
「でも、やっぱり嫌だよ。僕はもっと強くなるし大人にもなる。約束するよ。だからミューはこれからも僕のそばにいてよ」
『……』
「お願い行かないで。……行かないで、ください」
『健太、お前と話せて本当に良かったよ』
「止めてよ、そんな言い方」
僕の目に涙が溢れる。ミューの姿を初めて見たいと思った。
『例え二度と話せなくなっても、俺はお前のことを忘れない。いつもお前を見守っている。だから健太、強くなるんだ。本当の意味で強くなるんだ。お前ならそれが出来る』
少しずつミューの声が小さくなっていく。海に吸い込まれていくように。僕は手を思い切り伸ばしてみた。しかし手応えは感じらない。
薄れていくミューの存在を必死に追いかけた。頼みたいことがあるのだ。永遠の別れがどうしても避けられないと言うのなら、もう一度だけミューに頼りたい。
「お願いがあるんだ。いつだったか、海にメッセージボトルを流したよね。あれがどうなったか確認してほしいんだ」
『分かった。必ず確認する』
「絶対だよ。絶対の絶対だからね」
ミューの声はもはや周波数の合わないラジオのように途切れ途切れで、しばらくするとそれも全く聞こえなくなってしまった。
「……ミュー」
色彩が徐々に戻ってくる。いつの間にか涙は風が吹き飛ばしていた。
ミューとの出会いが、確実に僕の中に何かを芽生えさせた。人生を振り返ったとき、最初に多大な影響を与えてくれたのは紛れもなくミューだ。答えではなく、ヒントを与えながら大人になるための意識を植え付けてくれたミュー。僕の前から去ったということは、僕にその下地が出来たということなのだろうか。これからの生活の中で、どこかにその答えが隠されているのだろうか。ならば僕は見つけたい。それがミューに対する僕なりの謝辞になるのだと思う。
ミュー、僕はもう泣かないよ。
そして強くなるんだ。
これからは一人でも頑張れるから。
僕は君のことは忘れないよ。
だからせめて、どこかで僕を見守っててください。
さようならミュー。
ありがとう、ミュー。
砂浜で鴎が寒さに震えている。僕の小学校五年生の冬は、ミューとの別れと共にやって来た。(終わり)
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