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#35 超個人的ショートショート(1)

何の気なしに入ったカフェで、私は大きく一つため息をつく。
コーヒーの香ばしい匂いが店内に満ち、カウンター越しにマスターと思われる男性が、常連客と何やら談笑していた。
どうやらダーツの話題らしい。
私は注文したマンデリンを一口すすった。
すぐに深みのある苦味が口の中に広がった。
28という年齢まで生きてきたのだから、失恋が初めてというわけではない。しかし、今回に限っては参った。
私にしては珍しく、全身全霊をかけた恋愛だった。
彼との未来を夢見て、それはまるでデジャヴを味わうかのように鮮明なビジョンとなって私の頭の中にあったのに。
作り上げるまでは時間がかかるけれど、崩れるのは一瞬。
そんな当たり前な恋愛の法則を、私は今更ながら味わっている。

コーヒーをもう一口飲みながら、カフェの店名である『D』の意味を思う。あれこれ考えてみたが、最終的に辿りついたのは「ダメージ」。
今の私にぴったりだ。
もう何度も繰り返した自虐的な台詞を、そっと呟いてみる。
「落ち着きませんか?コーヒーを飲むと」
いつの間にか、マスターが私の前で微笑んでいた。
「ええ、まあ」
「コーヒーの苦味は、嫌なことを忘れさせてくれます。そして、明日への活力をくれるんです」
私は気の利いた返事ができない。
ただ白いコーヒーカップを持て余し気味に回しているだけ。
結局、私はコーヒーを飲み終わるまで何も言えないでいた。
店を出たときの「またどうぞ」というマスターの声だけが、やけに優しげだった。
外へ出ても、あの苦味が心を刺激している。
何よ。明日への活力なんて、全然涌いてこないじゃない。うそつき。
ただ、なぜか買ったばかりのスニーカーを履いているかのように足取りは軽かった。
決してさっき飲んだコーヒーのせいだとは思わないけど、でも、今は空を見ても心が痛まない。

そうか、『D』って、「大丈夫」って意味なんだ。

日差しのまぶしさに目を細めながら空を見上げてみる。
透き通るように青い空が、私の頭上を覆っていた。


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