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#28 海辺のミュー (2/3)

 その日以来、僕は学校が終わると毎日ミューと会話するようになった。砂浜に立ち、潮の香りを含んだ風を吸い込むと、どこからともなくミューがやって来る。姿を見ることは出来なくても、その存在をしっかり感じることができた。
「ねえ、聞いてもいい?」
『なんだ』
「この前の台風のとき、僕ここに来たんだ。ミューはすごく怒っていたよね。ドーンって大声をあげていて、とても怖かった。どうして怒っていたの?」
 ミューはなかなか返事をしない。
『それは難しい質問だな。答えにくい』
「どうして?」
『まだ子供のお前には理解できないだろうということさ』
「僕、もう子供じゃないよ。この前、十一歳になったんだ」
 僕は少しむきになって言い返す。
「お父さんとお母さんはね、天気が悪い日は仕方がないって言うんだ。でも僕は違うような気がする」
『何度も言ってるだろ。子供には分からないって』
「僕はいつ大人になれるの?」
『そうだな。もっとたくさん勉強して、たくさん経験を積んだときだな。そうしたら俺が教えなくたっていつの間にか分かるようになる。それまで待つんだ。そうやって少しずつ大人になっていくものだ』
「うーん、よくわかんないよ」
『……』
「ねえミュー。……ミューってば」
『……』
 もう返事は来なかった。いつもミューとの会話は唐突に終わる。海面に反射した陽光がダイヤモンドのようにあちこちで輝いていた。その美しさに目を奪われる半面、胸中には疑問がまだ燻っていた。僕はいつになったら大人になるのか。それは楽しみなようなもどかしい、不思議な感覚だった。

 季節が移り、海の向こうから吹く風が日ごとに冷たくなった。いつものように流木や貝殻を拾い集めてミューを待つ。最近は多めに着込んでも寒さをしのぐのは大変だ。赤くなった指先に息を吹きかける。それでもミューが近づくと、僕の周りだけ温度が上昇するのが分かる。僕は軽く目を閉じる。そして耳を澄ませ、頭の中で響くあの声を探す。
『……健太、今日は学校どうだった?』
「別に。いつもと変わらないよ」
 僕が虐められていることはミューには話していない。
『そうか。さて、今日はどうする?』
「あのね、宿題が出たんだ。外国のことを調べなさいって。でも僕は外国に行ったことがないし、本を見たってよく分からない。ミューは色々と知ってるんだろ。だから教えてよ」
『何が知りたいんだ』
「こことは違うこと。言葉とか食べ物とか習慣とか、」
『そんなものはないな』
 ミューの予想外の尖った声に僕は戸惑う。
『そんなことを知ったところで知識は増えるかもしれないが、本当に健太が必要な力にはならない』
「……」
『確かに、海の向こうにはたくさんの国があるし、そこには様々な人が住んでいる。健太に似た顔の人もいるし、肌の色が全然違う人もいる。習慣だって違うだろう。でもそれはあくまでも見た目の違いだけだ。ちょっと手段が違うだけで、人が暮らしていることに関しては根本的に何も違いはないんだよ。どんな人でもお腹が空けばご飯を食べるし、眠くなったら温かい毛布が恋しくなる。両親には甘えたくなるし、好きな人を抱き締めたくなる。夢を持つとそれに向かって頑張ろうとする。それは言葉も肌の色も関係ない。人間ならみんなそうなんだ』
「……」
 目の前で波が大きくうねる。風に乗って飛沫が頬に当たった。
『全ての陸地は海で繋がっているんだ。そこで人が暮らしている。違いなんてあるもんか』
 水平線に数隻の漁船が見えた。薄靄のかかったような気分がどうにも晴れない。ミューの言葉を反芻するまでもなく、自分の知っている世界は余りにも狭い。海の向こうに何があるかなど考えもしなかった。自分が小さな箱の中に閉じ込められているような気がした。あの向こうに何があるのか知りたいと思った。そうすればミューの言葉の意味が解る気がした。そしてそれがきっと僕が大人になるために必要なことなのだろう。
「ねえ、向こうに行くとどんな色が見えるの?」
『綺麗な色さ。とは言っても赤とか青とかそういうのとは違う。眼で見るだけじゃなくて感じる色だ。人間が様々な方法で生きている色だ。時には鮮やかだったり、くすんだりしながら精一杯生きている色だ。それらがマーブル状に交じり合って、他にはないハーモニーを奏でるんだ。それが海の向こうの色だよ』
「やっぱり僕はまだ子供だ。全然分かんないよ」
『今はそれでいい。お前にも分かるときが必ず来る』
 僕は大きく深呼吸をした。肺の中が潮風で満たされる。
 頭の中は疑問でいっぱいだ。いつもミューは明確な答えをくれない。それは僕が大人になったら分かるのか、それとも疑問を解いたとき大人になるのか。そもそも大人ってなんだろう。子供ってなんだろう。何でも知っていれば大人で、何も知らなければ子供なのか。どうして僕は子供なんだろう。両親も昔は子供だったのか。僕のような疑問を抱えていたのか。だとすると、それをいつどのようにして解決させたのか。さっぱり分からない。それは僕がまだ子供だから。まだ大人じゃないから。
『健太、健太』
 突然、ミューが僕を呼ぶ。
『そっちに行ってみろ。面白いものが見つかるぞ』
 ミューに促されるまま、僕は波打ち際に沿って歩き出した。
 どれくらい歩いただろう。僕は一本の青いガラス瓶を見つけた。取手がついた滑らかな流線型の瓶だった。口の部分が蝋でしっかりと塞がれている。手に取ると、意外にもずっしりしていた。僕は空にかざしてみる。中にはカードと小さな貝殻が数個入っていた。カードには何か書かれているが、僕は今までそれを目にしたことがなかった。
「これって、もしかしたら外国から流れて来たものなんじゃないかな。波に乗って来たんだ。きっとそうだよ」
 改めて海の向こうから流れ着いた漂流物に目をやる。ここに至るまでにどれくらいの時間がかかったかなど想像もつかない。気分が高揚していくのが自分でもわかった。僕はこれを見つけるべくして見つけたのだ。果てしなく長い旅だったであろうが、その帆先は絶えず僕に向いていたのだ。海によって繋げられた大地を実感した。それはとても愛しい繋がりだ。壮大な字時間旅行の結実だ。心の中にじんわりと感動が浸透していく。それは母が作ってくれるクリームシチューを食べたときのまろやかさに似ていた。
「これすごいね。だって海の向こうから来たんだもの。そこに人が住んでいるんだね。この瓶を投げたとき、どんな気持ちがしたんだろうね。その人にとっては、僕が海の向こうにいるんだね。ちゃんと届いたよって教えてあげたいな」
『教えてあげたらいいじゃないか』
「え?」
『健太が思う方法で教えてあげたらいい』
「……うん」
 
 それから僕は帰るなり机に向かい、紙と鉛筆で自分の思ったことを具体化した。同じことをすればこの繋がりをもっと強く実感できると考えたのだ。イメージしていることが思うように紙の上に表現できず、何度も書き直した。一心不乱に取り組んだ末、ようやく自分でも納得のいくメッセージが書き上がった。

 あなたのメッセージはぼくがちゃんと受けとりました。
 海のむこうでどんなふうにくらしていますか?
 いつかお話できたらいいですね。
 あなたの瓶を見つけたのはミューです。
 ミューはぼくの友だちです。
 ミューはなんでも知っていて、いろんなことを話してくれます。
 でもぼくはその半分もわかりません。
 ミューはぼくが大人になったらわかると言います。
 あなたは大人ですか?子供ですか?
 ぼくはまだまだ子供です。
 早く大人になって、あなたが住んでいる場所に行きたいです。
 では、このメッセージがあなたに届きますように。日下部健太

 カードと拾った貝殻をペットボトルに詰め、口をビールテープで何重にも巻いた後、仕上げに蝋で固めた。こうして僕のメッセージボトルが完成した。両親は突然の僕の行動に驚いていたが、楽しそうに手伝ってくれた。

 深夜になり、両親が寝静まるのを待って、僕は家を抜け出した。次の日まで待っていられないほど興奮していた。外は縮み上がるほど寒かったが、後戻りする気はなかった。一刻も早くメッセージボトルを届けたかった。月明かりの先導で僕は海を目指す。
 夜の海は美しかった。三日月が妖しい光を放ちながら眠たそうに浮かんでいた。こんな時間でも漁火が水平線を照らしている。幻想的な空間がどこまでも広がっていた。
 僕は大きく息を吐き、メッセージボトルを海に投げ入れた。軽さのせいなのか、ボトルは遠慮がちな様子で、なかなか海岸から離れようとはしなかった。僕は根気よく待つ。大丈夫、必ず流れていく。だって海を通して向こうと繋がっているんだから。
 やがてゆっくりと、しかし確実にメッセージボトルは遠ざかっていった。僕のまだ知らない大海原へ旅立とうとしていた。波に乗って上下に揺れているその姿を見て、僕はある種の嫉妬を感じた。そして無事に海の向こうに辿り着くことを願った。今、僕の想いは確実に海の上にある。そして遥か彼方へ向けてその歩みを進めているのだ。満足感と期待感が胸の中を吹き抜け、目から涙が零れ落ちた。
 相変わらず月は眠たそうにしている。僕はあの三日月に腰掛けて、自分の想いを乗せたメッセージボトルの行方を追いかけたかった。(続く)


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