#32 蒼い空と海の記憶(2/3)
ほんの一瞬の出来事や人との出会いで、自分の価値観が大きく変化することがある。僕もこの世に生を受けてから周りの影響を受け、その時々の価値観を持って生きてきた。もちろん、これからもそうしていくことだろう。人生とは偶然の産物による時間の堆積と言える。
しかし起こった出来事の全ては必然の範疇であり、そこに偶然の入り込む余地はないと言う人もいる。人生において受動的なことなどあり得ない。良いことも望ましくないことも、結局は自分の心が命じたことなのだと。
そうだとすると、僕が新元夏海と出会った事実にはどんな必然があったのだろう。僕は何を求めて彼女との出会いを選択したのだろう。
数日ぶりに見る海は、明け方に降った雨のせいで濁っていた。今は青空を取り戻しているが、まだ海の色との調和が取れていないような気がする。僕はまだ若干の湿気が残っている砂を踏み締めた。松葉杖の先がめり込んでいく感触がいつもと違った。
視線が忙しなく周囲に散らばる。その先にあるのは、どこまでも続いている砂浜と、打ち上げられた流木、そして捨てられたごみ。否、探しているのはそんなものではない。
今日は帰ろうと思ったそのとき、視線の端に何かが見えた。それまで見えていた無機質なものではなく、僕にとって意味を成すもの、ここに来た目的そのものだった。向こうの視線も僕を捉えたようだ。それを示すように、それはこちらに近づいてきた。あのときと同じように、最初はゆっくりと、次第にその歩調を速めて。僕の心臓がトクンと鳴る。
「……こんにちは」
彼女は少し息を弾ませていた。控えめな物言いに、彼女の緊張感がこちらにも伝わった。
「この前はごめんなさい。ひどいこと言って」
「あれは俺が悪かったから。こっちこそゴメン」
「でも、」
「いや本当に。もう大丈夫だから」
この短いやり取りに全てが凝縮された。彼女は空を見上げて大きく深呼吸をした。そして「良かった。もう会えなかったらどうしようかと思った」と言った。その言葉をきっかけに、僕らの間に存在した見えない垣根が取り除かれた気がした。
それ以来、僕らは毎日のようにここで会うようになった。話しているうちに同じ年であることが分かった。いつの間にかお互いを名前で呼び合うようになった。彼女の雰囲気が僕の心を和ませ、そのときだけは怪我のことを忘れることが出来た。
大抵は彼女が話し、僕はそれを興味深く聞いて過ごした。特に惹かれたのは彼女が過ごしているロサンゼルスのことだった。当時、海外に関する情報はテレビなどで伝えられる程度しかなかった。
「大した話は出来ないけど」
彼女は言葉を選びながら話し始める。
向こうの住宅地って、家の前には必ずっていいくらいに芝生があるの。街の決まりでそうしないといけないんだって。景観を良くするのが目的みたい。だから住んでる人はみんな念入りに芝生の管理をするの。ほら、映画とかで新聞配達の少年が芝生の上に朝刊を投げるシーンとか見たことない?あんな光景が普通に見られるんだよね。
日本と違ってロサンゼルスって雨がとても少ないの。だからたまに雨が降ると車がスリップして道路脇でひっくり返ってたりするの。私は免許がないから分からないけど、濡れた道路って運転しにくいのね。でもパパが言ってたんだけど、そういう車って大抵タイヤが古くて鏡みたいに表面がツルツルなんだって。それじゃ滑るのも当たり前だよね。
向こうにいると自分は外国人なんだなって思うことがたまにあるの。人種的にってことで。私でも感じるんだから、やっぱりものすごく根が深いのね。私の通う学校には白人も黒人、もちろんアジア人もいるんだけど、逆に日本に来たときはどうして日本人しかいないんだろうって思ったくらい。学校ではみんな仲いいよ。あの環境にいたら、肌の色とか生まれたところなんかどうでもよくなる。同じように笑うし、同じように怒るし、何も変わらない。海の向こうにいても結局は人がそれぞれの心で生きているの。その辺はみんな同じだなって思う。
僕は水平線の向こうにある人々の営みを思う。彼女が言ったように皆が同じということがあるのだろうか。人は生まれる際に、その環境を自分で選ぶことはできない。時代や場所が大きく影響し、望むと望まざるとに拘わらず、それは自分がこの世での役割が終わるまで続く。もしもそれが運命なのだとすれば、そこに不平等さを感じずにはいられない。
僕はそんな疑問と呼べるかどうかも分からない思いを口にした。たどたどしい物言いながらも、彼女は真剣なまなざしで僕の話を聞いていた。
「私もまだよくは分からないけど、でももし運命を受け入れるしかないのだとしたら、それは場合によっては辛いことだと思う。みんな素敵な環境で育つ人ばかりじゃないから。でも仮に、自分で選んだ環境だとしたらどうかな。それは無意識のうちにってことになると思うんだけど。もしかしたら自分の手で居心地の良い環境にしようって思うんじゃないかな。……そんな気がする」
彼女は眩しそうに目を細めて海を見ていた。予想の範疇を越えた答えと、風に揺れる髪を気にする仕草が重なり随分と大人びて見えた。それは、彼女が同い年でありながら色んな経験を重ねていて、下手すると僕が一生触れることない世界を見聞きしているからだ。胸の奥に微かな焦燥感が走る。それは陸上競技で自己の記録を思い求めていた頃に感じていたものとは趣を異にするものだった。それまでのようにタイムを縮めるために自らを追い込むのではなく、むしろ意識がゆっくりと拡散していくような開放的な感覚に近かった。自分の中で今までとは違う何かを求めている、そんな気がしたとき、ふと「俺も行ってみたいな、外国に」とそれまで思いもよらなかった言葉が口をついて出た。内心かなり驚いたが、これから様々なことに遭遇しながら生きていくであろう僕にとって最も必要なことのように思えた。自分でも呆れるくらいたどたどしい想いの吐露ではあったが、それが飾り気のない気持ちだった。そして予期せぬところで自分の本心をさらけ出す形になり、急に照れ臭くなった。
「健太、それとてもいいと思う」
彼女の弾んだ声が僕の心の背中を押す。
「ねえ、だとしたらどこに行きたい?」
「え、知らないことばっかりだし想像もできないよ」
「それじゃこうしよう。いつか大人になったとき、自分が見てきた世界を教え合うの。そこで何を感じたのか、自分はなぜそう思うのか」
「そんなこと、俺に出来るかな」
「大丈夫。私たちが強く願っていればきっと実現するよ。世界って想像しているほど広くないから」
彼女の笑顔は夏の日差しによく似合っていた。
僕も一緒に笑ったが、恐らくかなりぎこちなかったと思う。自分の将来など雲をつかむかのように漠然としていて、それ故に海の向こうにあるものを見て何かを語るということ自体がまだ想像できなかった。実感の薄さに身震いする思いだったが、それでもそうなれたらどんなに素晴らしいだろうとも思った。
オレンジ色の炎が薄暮の空に重なった。火の勢いに注意しながら流木をくべると、すぐにパチパチと乾いた音を立てて燃え、白い煙が風の吹く方向を指し示すようにゆっくりと流れていく。海に向かって流された煙は、やがて音もなく周りに溶け込むように消えてしまった。僕は大きく息を吸い、消えた煙の名残を探す。
「こんなのでどうかな」
やがて彼女が集めてきた流木を両手に抱えて戻ってきた。
「ありがとう。いいんじゃないか」
「探せばあるものね。たくさん集めたくて、結構遠くまで行っちゃった」
そう言って彼女は流木を足元に落とした。流木同士がぶつかる乾いた音が耳に響いた。
「ねえ、もっと集めてこようか」
「いや、これぐらいあれば充分じゃないかな」
僕が答えると、彼女は焚火を挟んで向かい側に座った。炎と同じ色に染まる彼女の白いシャツが艶やかで、僕は少しだけ視線を逸らす。
「左膝、最近はどんな感じ?」
「もうすぐ松葉杖なしでも歩けるようになるって言われたよ」
「そう。良かったね」
この頃は、そんな会話も出来るようになっていた。
焚火をしようと言い出したのは僕だった。彼女はすぐその提案に乗ってくれた。なかなか思うように動けない僕を気遣い、薪となる流木を集める役を買って出てくれた。僕の役目は砂を掘り、そこに薪を並べ、炎の大きさを調節すること。そんなささいな分担作業が、僕らの距離を確実に縮めていく。
暮れなずむ空に、少しずつ群青色が混じっていく。穏やかな波が周りの静寂さを際立たせる、そんな昼間が夜にバトンを渡す僅かな時間帯、僕らは時折小さな会話を挟みながら焚き火を見つめていた。不規則な揺れが意識をどこか別の場所に誘い、気が付けば海月が浮遊するかのように更に他の場所へと移動する。敢えて着地点を決めず、僕らはその無重力にも似た感覚に心を浸した。
「ねえ、健太の子供の頃のことを話してよ」
「え?」
「今よりももっと小さいとき。何をして、どんなことを考えていたのか」
問いかけが無邪気であるがゆえに、僕は返事に窮してしまう。彼女の期待に応える話など一つもないように思われた。正直断りたかったが、彼女の澄んだ瞳がこちらを見据え、僕にそのきっかけを与えようとしない。しばし考えたのち、僕はミューのことを話した。心身共に深い傷を抱えていたあの頃、自分にとってこの海とミューがいかに大切な存在だったかを。しかし話を進めていくうちに、そこはかとなく不安が沸き起こった。確かにミューはあの頃の自分にとっては必要な存在だったのだが、だからと言って彼女がどう受け止めるかは分からなかった。子供っぽいと一笑に付されるようなことがあれば、それは今の自分を構築している殆ど全てを否定されたに等しく、せっかくここまで築いてきた彼女との関係が一気に壊れてしまうかもしれなかった。僕にとってミューとはそれほど無垢で侵しがたい存在だった。
「そんな時期があったんだ。でも私としては良かったよ、健太が今の健太でいてくれて」
それを聞いた僕の鼻の奥が少しだけ熱を帯びた。彼女の口調は寄り添うでもなく、かと言って突き放すわけでもなく、ある意味単調な、それでいて陽だまりのような温かみがあった。僕の心配など杞憂に過ぎない。先ほどまでの不安が一気に霧散していった。
僕は持参したリュックサックの中から一足のシューズを取り出した。青を基調に白いラインが入っていて靴紐は黒。かなり汚れていて、ゴム製の分厚かった靴底もずいぶんとすり減っている。
「これ、」
「ずっと練習や大会で履いてたやつ。もういらないんだ」
「どうするの?」
「……」
「もしかして……」
脳裏に様々な情景が浮かぶ。毎日の辛かった練習、吹き出す汗、顧問の先生の檄、夕日に照らされた校舎、黄土色の土を踏み締める感触、レース直前の緊張感、トップでゴールテープを切るときの感激、仲間たちの祝福、転倒したときに舐めた白線の味、救急車のサイレンの赤、涙で滲んだ空の青。
こんなものがあるからいけないのだ。これを見るたびに、どうしても傷口に触れずにはいられなくなる。こんな気持ちがいつまで続くのかわからない状況は耐えがたかった。どうせあの頃には戻れない。ならば最も思い入れのあるシューズを燃やすことで、強制的にその傷を塞いでしまおう。簡単なことだ。目の前に放り出せばそれで終わる。
とは言え、頭で分かっていても、すぐに行動に移すことが出来なかった。身体が脳からの命令を拒否しているようだ。思わず苦笑いが浮かぶ。しかしずっとこうしてもいられない。しばしの逡巡の後、僕の手から放たれたシューズは、小さな放物線を描き、ゆらゆらと揺れる炎に吸い込まれた。火の粉が不規則に舞い上がる。炎の背丈が一段と高くなり、すぐに黒い煙が立ち上った。焦げた匂いが鼻腔をつく。僕は奥歯を噛み締めながら自分の過去が灰になっていく様を眺めていた。少しでも油断したら気持ちが乱れてしまう気がした。
やがて全てが燃え尽きる直前、それまで口を閉ざしていた彼女が「健太、約束して」とつぶやくように言った。
「健太がそれまでしてきたことを否定する気持ちにならないで。実際に見たわけじゃないけど、健太がとても頑張ってきたのはとても強く感じるの。思いがけない怪我で、目標にしていた大会に出られなくなって、全てを忘れてしまいたい気持ちは分かるけど、でもそれまで積み上げてきたものがなかったことになるなんて絶対にないから。今回は古くなったシューズを処分するだけ。怪我が治って、またいつか走りたくなるときが来るかもしれないし。そのときに力強く一歩を踏み出せるように、過去の健太を否定するのは止めよう。……ね?」
じっと僕を見て話す彼女の瞳が潤み、やがて大粒の涙がこぼれ落ちた。水晶のように透き通った美しい涙だった。彼女の言葉と涙を真正面から受けた僕は、これに答えるに相応しい言葉を見つけられなかった。
「大丈夫、健太は強くなってる。ミューもきっとそう思ってるから」
乾いた大地に降る雨のように、彼女の言葉の一つひとつが僕の胸に染み渡った。恵みの雨はやがて辺り一面を緑に変える。自然の営みを取り戻した様を見て、人は乾いていた過去を否定的にとらえるだろう。あれは本当に嫌な時期だったと。しかしそれは違う。乾いた黄土色の大地の中で、じっと雨を待っていた種の存在を忘れてはいけない。そしてあの黄土色の土はその種をそっと包み、守っていたことも。
もしかすると僕は自分の力だけではどうにもならないものを追いかけていたのかもしれない。陸上競技と出会い、そこに自分の居場所を見出した。そのとき強さを手に入れたように感じていたが、運命の悪戯に一瞬の隙を突かれ、全てを失ったと思っていた。しかし暗雲からこぼれ出る光を頼りに、僕は新しい強さを手に入れる。いや、そのための準備を始めればいい。
やがて全てが燃え尽き、焚火は静かに消えた。いつの間にか辺りはすっかり暗くなっている。
「良かったよ、その言葉が聞けて」
「え?」
「ありがとう」
僕の声に彼女は黙ってうなずいた。その際にまた涙を流したように見えたが、夜の闇に紛れてしまった。(続く)