#02 静かなる母ちゃんの具現
半年ぶりに見る姿に、小磯達夫は大きくため息をついた。札幌から車で1時間半ほどかかる場所にある介護施設「さくら園」の広い駐車場で、達夫の母親である節子がパジャマ姿でうずくまっている。彼女はアスファルトの上に白いチョークで四角形や三角形、丸、そのほか何やら幾何学模様を書き連ねていた。介護担当の女性職員が「最近、いつもこうなんですよ」と穏やかに言う。それが却って内面の苛立ちを鮮明にしているように感じられて、達夫は気の抜けた返事をした。
6月に入り、北海道もようやく初夏と呼べるような気候になった。吹く風は匂い立つような緑を含み、野鳥はまもなく訪れる夏への期待感を膨らませながらさえずっている。そんな中、うずくまった節子のパジャマ越しに痩せた背中が貧相に映った。
「チョークを取り上げても、すぐに別のを持ってくるんです」
「すみません。ご面倒をおかけして」
5年前、節子は夫との死別を機に、周りの意見も聞かずに自分の持家と土地を勝手に売り、そこで得た金で「さくら園」の入居を決めた。それを知った達夫は驚嘆した。相談してくれてもいいじゃないか。こんな辺鄙な場所ではなく、頻繁に立ち寄れる札幌市内の施設を検討したのに。憤りの原因はそれだけではない。札幌市内で会社を経営している達夫にとって、実家の土地はいざというときのための担保にするつもりだった。その計画も水泡に帰した。自分の身勝手さを棚に上げ、達夫は奥歯を噛みしめる。
「私はこれで。何かあったら呼んでください」
女性職員がその場を離れた。バケツとモップが置きっ放しになっているのは、後で掃除をしておけという無言の指示だろうか。こんなので落ちるわけない。日差しが強くなっていく。首筋がジリジリと焼けるように暑い。
「母ちゃん、もう止めろよ」
とりあえずそう声をかけるも、節子からは何の反応もない。アスファルトに滑るチョークの乾いた音が青空に吸い込まれていく。
達夫は節子の両肩に手を添えた。しかし骨ばった感触に思わず手を引いた。少し力を入れれば折れてしまう枯れ木を掴んでいるようだ。これが俺のお袋。やるせない気分でまたため息をつく。
入園当初、達夫は心細いだろうからと時間を見つけては妻と子供を連れて顔を見せに来ていた。しかし節子はいつも素っ気ない態度に終始し、やがては罵りにも似た言葉を投げつけるようになった。すでに何らかの兆しがあったのだろう。当然のように妻も子供も来ることを拒むようになり、自然と達夫も足が遠のいていった。様子がおかしいと連絡があったのは1年ほど前。以来、坂道を転げ落ちるように節子の症状は進行していった。
節子の描く幾何学模様がどんどん広がっていく。
「ほら、掃除するからな」
達夫がチョークを取り上げようとすると節子は抵抗した。その弾みで手からチョークがこぼれ落ち、アスファルトの上で割れた。節子はパジャマのポケットから真新しい一本を出し、再び描き始めた。一瞬の沈黙の後、やるせなさが大きな渦となり達夫を飲み込んだ。
「いい加減にしろよ。完全にボケちまいやがってよ」
思わず怒鳴っていた。感情の決壊は抑制を瞬く間に隅に追いやり、達夫は自分の母親に対して罵詈雑言を浴びせた。しかし、何を言っても節子から何らかの反応を得ることは出来ない。肺に穴が開いたような息が漏れた。
母ちゃんはもう俺のことも解っていない。
母ちゃんにはもう何も残っていない。
覚悟していたとはいえ、その事実を認めざるを得なかった。そして砂が崩れるように自分の母親が衰え、記憶をなくし、この世から消えていくのをただ黙って見ているのは耐えられなかった。
達夫の身体の奥から得体の知れない感情が沸き起こった。理不尽とは知りつつも自分自身では制御できない、確かな熱を帯びた激しい感情だった。
「母ちゃん、もう、いいだろ」
達夫は女性職員が置いていったモップを手にする。柄の中心付近を持ち、ゆっくりと節子に近づいた。柄を握る手に力を込め、大きく振りかぶる。
「今日はいい天気ですね。北海道もいい季節になりました」
心臓が止まるかと思うほどの驚きだった。振り向いた先には園長の友利良治が立っていた。眩しそうに空を見上げながら、薄くなった頭髪を撫でていた。我に返った達夫の鼓動が加速度的に増していく。冷たい汗が全身から吹き出した。
「ああ節子さん、今日もたくさん描きましたね」
柔和な笑顔を浮かべて友利が声をかける。達夫は悪寒めいたものを感じながらようやくモップを下ろした。どうしたらいいか完全に見失っていた。
「気にしないでください。消そうと思えばいつでも消せますから」
「……え」
「私ね、いつも楽しみにしてるんですよ。何か意味があるんじゃないかって。それが知りたくて聞くんですが、節子さんどうしても教えてくれない。どうやら私には無理のようだ。恐らくその資格がないのでしょう」
そう言うと友利は達夫からモップを受け取った。達夫の指は握ったままの形で強張っていた。
「あの……、俺……」
「あ、そうだった、これから大事な会議があるんでした」
友利は手を叩くと踵を返し、「ではお先に」と言い残して立ち去った。
再び静寂が訪れる。汗に濡れた身体が体温を奪ったのか、達夫は一つくしゃみをした。この間にも節子が描いた模様は増殖するように広がっていた。それを達夫は呆然と眺めていた。極度の緊張の後にやってくる、生温い疲労感を覚えていた。
風が吹いた。細かな砂や塵がさわさわと音を立てる。それと一緒に白い綿のようなものが大量に運ばれてきた。楡の木の綿毛だった。園の裏手に楡の並木があり、その綿毛が風に乗ってここまで運ばれてきたのだった。
粉雪のようにふんわりとした綿毛はいつの間にか駐車場全体に広がった。その中で節子は小さくうずくまっている。
ふと達夫の中にある光景が浮かんだ。それはまだ子供の頃、寒さに白い息を弾ませながら両親に連れて行ってもらった雪祭りの様子だった。国内外の有名な城や当時の人気キャラクターなど、真っ白で大きな雪像の迫力に、まだ幼かった達夫は興奮した。どうして雪であんな大きなものが出来るんだろう。ずっとそんなことを考えていた。あのときの外の寒さや往来する人々の声、そして何よりも雪の感触が蘇ってくる。考えてみれば、あの頃の父と母は今の自分よりも若い。その事実に今更ながら驚いた。
母ちゃん、もしかして描いているのは……。
蘇った記憶と目の前の落書きのような模様がマーブル状に溶け合っていく。自分の母親は、あのときの記憶を描いているのか。冷えた身体に血が通い出したような気がした。勿論、彼女がどこまで意識しているかはわからないし、おそらく何も意識していない。しかしそれでいい。自分なりに解釈できただけで満足だった。達夫は節子の隣に並んでうずくまった。転がっていた短いチョークを手に取ると、一緒に模様を描き始めた。何が出来るのかと言うよりも、こうしている時間が貴重だった。
節子の細い髪に楡の綿毛が付いている。達夫はそっと手で取り、息を吹きかけた。宙を舞った綿毛はすぐに地面に落ち、その白と同化した。
「母ちゃん、来年は雪まつり一緒に行こうな」
節子は何も返事をしなかった。(了)
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