捨てられる患者 ver.0
捨てられる、いや捨てられた患者さんは、間違いなくいる(と思う)。
医師の私としては、正直認めたくないところではあるけれども、やはりいると思う。
例えばこんな話がある。
とあるがんを患う方が、「抗がん剤をやりたくない」とおっしゃった際、主治医が「俺の言うことが聞けないのなら、検査も何もしない。来年の桜は見れないと思った方がいい」と言い放たれたと。
この手の話は案外少なくない。
がん、特に抗がん剤を受けている患者さんに多い印象。
主治医が提案した治療に"従わない患者”に「ではうちでできることは何もありませんね。他に行ってください」のような。
他に行ってくださいと言い放たれるという話は案外少なくない。
まだせめて、●●病院のように行き先を提案してくれればマシなのだが、”自分で探して”行ってくれと言われるケースもまた少ない印象。
捨てられたと感じている患者の元主治医は、捨てたとは思っていないはずだ。
せいぜい、意見を伝えただったり、他に行くように提案しただったり、と考えているんじゃないだろうか。
いずれにせよ双方に隔たりがあることは間違いないし、患者さんに大きなダメージ残っていることも間違いない。
なぜこうも、患者さんと医師には隔たりがあるのだろう。
この内容は少々シリーズ化して、私なりに答えを見つけてみたい。
Ver.0の最後に、十年以上前に書いた文章の一部を掲載します。
医師ではない文系出身の大学院生と共著で書いた文章のごく一部です。
(著作権もありますので、少々修正しております)
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「私たちとお医者さんとを隔ててきたものは何か?」
ここに私が一つ気になった表現がある。「症例」だ。症例検討会などといって「症例」がたびたび議論の的となる。しかし「症例」とはそもそも「患者さん」のことなんだろうか?いや、「患者さんの病気」のことなんだろうか?たぶんどちらでもあるのだろう。もちろん、「症例」の検討が医学の進歩に結びつくことは大変嬉しいことだ。しかし、どことなく冷たい感じがする。だからお医者さん達が、「症例」と呼んだとしても、私たちの病気だけでなく、私たちそのものを見てくれていることを願いたい。
今まで私たちと先生たちとを隔ててきたものは何だろう。私はお医者さんの世界に入って、知らなかったことにたくさん出会った。多くの患者さんが、住民が、お医者さんのことをもっと知って、信頼関係を結びたいと願っているはずだ。
思いがけず医局員になった私は、今日も先生たちと机を並べて研究をする。(Kさん記)
「患者の感情に敏感になること」
「当直明けも普通に仕事をしているんですか??」
Kさんが医局に来て間もない頃、私にそう質問をしてきました。私は少なからずこの質問に衝撃を受けたのですが、「当直明けの連続勤務」は医者にとっては半ば常識的なことであり、一般の方々も普通に知っていることだと思っていたからです。
Kさんは、私が産業医をしていた某金融会社の社員さんでした。産業医時代は、Kさんからは会社の世界の常識を教えてもらいました。そこは、医者の世界とは違う時間と空気で支配されていました。ほどなくして彼女がわれわれの世界に飛び込んできました。立場が逆転しました。今度は私が教える立場だと意気込んでいたら、それこそ大きな勘違いで、医療界と非医療界の違いを次から次と指摘され、産業医時代よりも教わることが多くなりました。Kさんの指摘で、われわれ医者と一般人(医者ではない人)の間には認識に関して大きな溝があることを痛感することになりました。
以前、私の師である先生から「患者の感情に敏感になること」という言葉をいただきました。我々医師が患者の感情に敏感になり、患者を理解しようとする姿勢を持つことこそ、その溝、つまり「私たちと患者さんを隔ててきたもの」を少しでも埋めることになると信じています。医療不信という言葉もたびたび聞かれるようになりましたが、医師と患者が互いにもっと理解し合おうとすれば、きっとそのような不信感も少なくなる、今回Kさんが医局に来られて日々感じています。(松嶋大記)