捨てる医師 ver.0
捨てられる患者がいるのだとすれば、捨てる医師がいるのは必然だ。
ぼくはどうだろう。
患者を捨てていないだろうか。
捨てていないつもりだが、よく考えると、やっぱり捨てていると思う。
認めたくはないが、やっぱり捨てている。
ここで、ぼくの一つの物語を告白したい。
ただ、詳細は全く憶えていないので、結論だけを。
ある患者さんを担当していた。
その患者さんの配偶者とお子さんが苦手だった。
正確に言えば、苦手だと感じていた自分を認たくなかったし、苦手ではないと言い聞かせていたし、誰にも言わなかったし、意識しないようにしていた。
そんなある日、ちょっとした問題が起きた。
残念なふりをしていたが、無意識には幸いだと思っていたはずだ。
この問題を理由に主治医を降りることを決断した。
繰り返すが、表向きは残念だと言明していたが、無意識には幸いだと思っていはずだ。もしかすると意識にも表出ししていたかもしれないが、あくまでぼくは医師、それは認めないようにしていた。
診察時、本人と配偶者を前に、問題について謝罪したうえで、主治医を辞退させていただきたい旨をお伝えした。
すると、配偶者が、劣化のごとく激怒された。
「おまえなんか、そこらへんの石ころだ」とぼくに浴びせた。
あまりに想定外だった。
言い返すことはしなかったが、それなりにショックだった。
医師になって「おまえ」と言われることはなかったし(患者さんやご家族から)、「石ころ」と同じ扱いを受けたことはおそらく人生で初めてだった。
結果、主治医を降りることを断念した。
その後、この患者さんのことは最後まで見届けて、一定の責任は果たしたつもりだったが、少なくとも一度主治医を降りることを伝えた以上、1%も責任は果たせなかったと反省している。
あのときのぼくは、明らかに患者さんを捨てようとしていた。
何よりたちが悪いのは、「捨てよう」としているのに、「捨てる」意思を認めず、正当化していた自分だ。愚かな医者である。
あのときの配偶者の激怒と、あの言葉(石ころ)は今でも鮮明に覚えている。
患者さんに対して何かしらの決断をするとき、とりわけ診療をお断りする場合や継続できない場合などに、「本当に患者さんのためを思っているのか」「その決断が患者さんにとっての最善なのか」を考える際の自戒の念として。
ぼくは逃げているのではないか?
ぼくは無意識に言い訳をしていないか?
ぼくはただ正当化しようとしているのではないか?
幸いに、今のぼくは当時よりもちょっとだけ成長した(と思う)。
苦手な患者さんには、心のなかで意識して「苦手だ」といえる勇気を持てるようになったから。
ぼくは石ころにすぎない。
でも、この言葉、今となっては案外好きだ。
とくに川の下流にある石ころが好きだ。角が取れて、丸っこい石ころ。
丸っこいと患者さんを怪我させることもないだろうし。
もしかして、あのご家族は、そんな未熟なぼくに対し激励で言ってくれたのかもしれない。
そう思うと、そう思える。
ただ一つ言えるのは、あのときは明らかに患者さんを捨てようとしていた。
そして、患者さんとご家族に迷惑をかけた。
このことだけは絶対に忘れないようにする。