文系院生と罪悪感
大学院生は、つくづく特殊な立場にある。やるべきことは山のようにあるものの、(恐ろしい事実だが)意外と手を抜けば「やり過ごせて」しまう。人文系あるいは自分の大学だけかもしれないが、学部と違って授業数も少ないし、たまにある発表の機会をどうにか乗り越えさえすればいい。ラボという概念はなく、教授もほとんどが放任主義である。ゆえに虚無に陥りやすく、もともと何かに興味を抱きやすいので、専攻とは関係ない分野をアマチュアで研究したり、ポカンと天井を見つめながら考え事をしてそのまま日が暮れるという空白の日々を、過ごそうと思えば過ごせる。そして、そのままスチューデントアパシーと呼ばれる学生無気力症候群に突入してしまえば、留年や退学が現実となって迫ってくる。
自分は何のためにここにいて、何のために研究しているんだろう、と考え始めたらもう、社会と自分の内にある深淵が口を開けてこちらを見つめていることに気づく。
そもそも、研究って何だ。学部時代、単位を取るために書いたレポートという名のまとめノートと、自分の研究はいったい何が違うんだ。(修士なんてアカデミックにおけるヒヨッコなので、実際教授からしたら大差ないだろうが……)たぶん、いつか自分の研究を「レポートではない」と言い切れるときが来たら、それがようやく専門家の端くれになれたときだと思う。文学研究の意義や意味を、頭では分かっているものの、自分の「研究」が果たしてそうした営みに少しでも貢献しうるかと問われたら、そうなるように努力します、と答えるしかないのが院生のつらいところである。
しかしわたしは根が楽観的なので、つねにこうした負の泥沼に飲み込まれているわけではない。たまにうっかり足を突っ込んでしまって、しょんぼりしながら泥まみれの服で帰宅する幼児程度のものである。なのであくまでここには、文系院生が陥りやすい思考パターンについて記録するにとどめたい。
まず、タイトルにも選んだ「罪悪感」は、文系院生の精神を日々蝕む元凶であると同時に、負のエネルギーで彼ら彼女らを研究に駆り立てる(いやな)動力源でもある。
院生は課される勉強量や、成果物に求められるクオリティが異常に高いにも関わらず、同じくらい高い学費も毎年支払っている。ゆえに、金銭的な心配と各種締め切りに追われるストレスをいっぺんに抱えなければならない。おそらく、こうしたプレッシャーに直面して虚無に陥る学生は少なくないだろうと思う。だが、お金の面でいえばアルバイトや奨学金ではなく、親に学費を支払ってもらえる幸運な場合ほど、罪悪感という魔物は容赦なく襲ってくる。親が学問に対して理解があろうとなかろうと関係ない。お金を出してくれたからにはがんばろう、という意気込みは、少しでも挫折を味わえばどろどろした罪悪感に変わる。
そして次に、この暗い影をつくるもう一つの原因は——社会と人間について考えることが仕事である文系院生が、いち早く気づきがちな点であるが——あらゆる大学院生を取り巻く「社会のまなざし」である。このまなざしは内在化され、院生本人にも埋め込まれているので、単純な社会vs院生の構図にはならない。
昔から文学や哲学は一部の人たちの特権であり、道楽としての面ももちろんあった。けれど、最近はメディアに文学部不要論というテーマが取り上げられるようになり、多くの人が「文学部の存在意義」について議論するべきだとますます感じるようになった。このテーマがメディアにとって、大勢の目を引いて収益を上げやすい格好の議題だったとはいえ、実際に文学部は就職に不利だと受験生に敬遠されるような事態になってきているし、文系科目の縮小について本気で考え始める行政も現れている(みんなが話題にしていることを公の会議で扱えば、政治者は「仕事してる感」を出せるからだ)。人文学を軽んじることは、本当にとんでもないことなのだが、そのとんでもなさの規模についてメディアが真剣に、かつわかりやすく語ることをしなかった結果、文系学部に対する薄っすらと冷たいまなざしが以前よりも増してしまった。社会にある色々なシステムの効率や管理の仕方ばかり学んで、そのシステムが存在する意味や、それを作った人の意図について考えないことほど恐ろしいものはないというのに。
……ちょっと脱線したけれども、以上がわたしの主観的な考えである。院生の感じる居心地の悪さというのは、少なからずこうしたまなざしに原因があるのではないか? みんなが必死で働いているなか、「好きなこと」に没頭する肩身の狭さ。「好きなこと」だからがんばれて当然だし、成功して当たり前。分野は違えど美大生も同じだ。技術や成果物がすぐ収入につながるわけではなく、作品の受け取り手にもある程度の知識や教養(+ときに財力)が求められるから、大半の人の目には「よくわからないもの」として映ってしまう。こうしてなかなか「結果」が出ないと、制作者は自身のがんばりに価値を見出せなくなっていき、それが徐々に罪悪感へとすり替わる。そして、大学院あるいは美大というよくわからない場所でよくわからないものを作っている人、の枠組みに自らを押し込めていってしまうのだ。
現実的な問題として、院生のパートナーや家族にも負担はかかる。学問や芸術にどれほど理解がある人でも、仕事でくたくたになって帰ってきたところに、「好きなこと」に没頭しているパートナーの姿を見て、まったく暗い感情を抱かないと言いきれるだろうか? わたしがもし社会人で、できるだけ避けたいけれど、本当に疲れていたり精神的な余裕がなかったら……難しいかもしれない。院生は社会人に比べて服装や時間の制約もない。そのうえほぼ無収入なのだから、自由に生きている(ように見える)彼ら彼女らと、それを支えるパートナーというアンバランスな関係に陥りやすいのは事実である。結婚や出産といった社会システムも院生のような存在を想定していないので、パートナーとの間で問題が起こりやすい。実際、博士課程で結婚されたという若手の先生(男性)は、転勤や収入の問題で子育てにもかなり苦労なさっているようだった。
わたしは特別に意識の高い院生ではないから、研究によって社会を変えるとか、大きな功績を残すとかいう情熱的な夢はない。(「好きなこと」によい環境でできるだけ浸っていたいという下心は、正直ある。)でもわたしのような人に対しても、つねにアカデミアの門戸が開かれている状態は非常に重要なことだ。
完璧な論文を出さなくとも、研究科に院生がいて、ひとつのテーマについてずっと考えていられる場所があるということは、その分野の体系が長く保存されてゆくことにつながる。学問はある意味で生き物であり、大学も研究者も学生も細胞の一つで、知識というDNAを後世に残すためのシステムなのだ。これは、他の生物と人間が大きく異なる点の一つで、身体における遺伝子情報とは別に、外部にデータを残して継承できる機構を作ったという、人類の恐るべき発明だろう。こうして考えると、その学問分野の人間が子孫を残すことをシステム自体が想定していないのも納得ではあるが。
……とは言っても、研究者たちが学問システムにだけ属するのは不可能だ。彼ら彼女ら(+その他)だって人間社会の一員で、国籍や戸籍もあるし税金もかかる。人を好きになることだってある。二つのシステムを掛け持ちするのだから、その微妙な価値観の違いや制度の相容れなさに苦しむのは当然だと思う。例えるなら、ネアンデルタール人とホモ・サピエンスのコミュニティを行ったり来たりするようなものだ。二つの世界の間には、人種や国よりもっと深い溝がある。
また、文系院生が罪悪感を抱くもっともな理由として、そもそも人文学という分野自体が人間の営みについて考える学問であり、その根底には社会と人間への愛があることが挙げられる。人間という生き物を好きでなかったら、文学や社会学なんて到底続けられないだろう。あるいは嫌いだからこそ理解したい、という理由もあるだろうが、どちらにせよ人間社会自体に強い思いを抱いているのは事実である。
そうなると、研究者側は社会を愛しているのに、社会は研究者を理解できないという悲しい片思いの状況が生まれてしまう。告白された人を必ずしも好きになれるわけではないのと同じで、研究者の思いが真に成就するには大変な道のりが待っていることだろう。
この文章を書き始めた当初は、「本来、文系院生は罪悪感を抱く必要はない。社会のまなざしを根本から変えていくべきだ」と主張しようと思っていたが、結論が少し変わってきた。
まず、院生が罪悪感を抱いてしまう理由として、家族や友人に対する「申し訳なさ」と、社会からのまなざし両方があると書いた。これは一見、個人的な人間関係と、社会的な地位の問題という違った原因のように見えるが、そうではない。家族や友人に対する申し訳なさだって、切り分けて分析していけば、収入や生活ペースの違いなど社会的な問題の一つになる。
つまり、院生が罪悪感を抱いていること自体が、「社会の営み」の一部であるのだ。現代日本の歴史や風俗の一事象として、ひとりの院生が罪悪感に苛まれながら研究に勤しんでいる——こんなに面白いテーマってあるだろうか。文学や社会学の面からも分析しがいがあるし、哲学だって持ち込めるかもしれない。
なんだか、思い悩む友達に、空を見上げて
「こんなに宇宙は広いんだよ。だから君の悩みなんてちっぽけなものさ」
という大変無責任な言葉を投げかけているような気持ちになってきたが、本来、我々文系院生が研究しているものとは何だったか?と基本に立ち返ると、こうした一見ちっぽけに思える感情の動きや世の中の不条理、そこから生まれるドラマではなかったか。我々は、そうした人間たちの不器用な営みや挑戦を愛しているからこそ、この分野を選んだのではなかったか。
だからこそ、院生よ。
罪悪感を抱く自分ごと、社会の事象として愛するのだ。
そんな気持ちを抱くなんて、なんとも人間らしくてすばらしいではないか。
そしていつか、かつての文学の中にある悩む人々や悲喜交々の事柄を論文にするとき、自らの苦しみを足がかりに、多くの人に読んでもらえる文章を書くのだ。
だから院生よ、
消えていなくなるな。
青磁
写真:パリのヴィクトル・ユゴー記念館にある、立ったまま書くスタイルのユゴーの机