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towastela
"フタンカン"を哲学したい
気がつけば、最近身の周りに"フタンカン"という言葉が充満している
あまりにしょっちゅう耳にするので、なんだかこちらまで息が詰まってしまいそうだ
そんな"フタンカン"という言葉が、どうも心のどこかに引っかかる
『暇と退屈の倫理学』を読んでいる真っ最中だから、刺激を受けてのことなんだが、この"フタンカン"を無性に哲学してみたくなった
業務過多で大変すぎるというのはわかる
業務過多というのはなんとかしなくてはならないとも思う
ただ、"フタンカン"という言葉から伝わってくるニュアンスには、なにかこう決定的な違いを感じる
「本来は自分のやることでもないのに、誰かにやらされている。
だから大変」
そんなニュアンスを感じ取ってしまうのは私だけだろうか
だからこそ、コトの当事者(と思っていた人)から"フタンカン"とか聞いちゃうと、なんとも言えない気持ちになる
この方にとっては、このコトは結局のところ他人ゴトだったのねとか思ってしまうから。
この"フタンカン"がどんどん増殖して、大変だけど当事者ゴトを、どんどん他人ゴトにすり替えていっている
そんな感覚すら覚える
こどもたちには、主体性の大切さを声高に謡いながら、
"フタンカン"という錦の御旗(?)か印籠(?)を掲げて、
どんどん他人ゴトに塗り替えていくおとなたち
きっと穿った見方だと信じたい
でも、そんな風にも見えてしまうからこそ、
このなんとも言えない"筋の通らなさ"にモヤモヤする
この"フタンカン"の正体は何で、いったいどこからやってきたのか
ちょっと考え込んでみたくなって、無性にウズウズしている