「記憶に残っているかどうか(想いだせるかどうか)」と「一生懸命やってきたかどうか」。これって案外別物なのかもしれないという話。
「あれ?出てこない。。。?」
2022年の自分の仕事を振り返ってみて、パッと想いだせることの少なさに愕然とした。
想い出せないということは、頑張ってこなかったからなのか。
はたまた、適当に流してきたからなのか。
そんな気持ちが湧いてきて、正直けっこう凹んでいた。
でも、改めて考えてみると、自分はそんなに適当に流せるほど肝は据わっていない。昨日だって、今日だって、自分なりに必死にやってきた。
「記憶に残っているかどうか(想いだせるかどうか)」と
「一生懸命やってきたかどうか」。
これって必ずしも繋がっているわけじゃないのか。
フツーのことを言っている。
傍から見るとそう聞こえるかもしれない。
けれども、想い出せないことにしんどさを感じていた自分にとっては、結構目からウロコだった。
振り返ってみた時に想い出せない。
それは、確かに寂しかったり、虚しい感じを覚える。
では、自分は、いい「想い出」をつくるために、頑張っているのか。
きっとそうではないし、「想い出」に残ったかどうかは、つまるところ結果論なのだろう。
そして、自分の場合は「想い出」にあまり残らないタイプなのかもしれない。というか、必死になればなるほど、記憶している余裕がなくなる。そんな気がしている。
そういえば、ガーナ時代の仕事の記憶もポッカリと穴が開いたように空白だ。毎日かなり必死で、手を抜いていたことなんて全然なかったのに。
そう考えてみると、こんな「問い」が湧いてくる。
自分にとって、振り返った時の「想い出」よりも大事なことはなんだろう?
なんでこれほどまでに「想い出」にこだわっていたのだろう。
これまでの自分がちょっと滑稽にさえ思えるほどだ。
スマホを片手に映える写真を撮るのに夢中で、目の前のことを味わいきれていない。「想い出」に躍起になるのは、そんな感覚に似ているのかも。
だとすれば、自分が本当に大事にしたいことは、「想い出」づくりとはちょっと違うのかもしれない。
目の前のことに「丁寧」に向き合うこと。
向き合うことから湧いてくることをじっくり味わうこと。
自分が大事にしたいのは、そういうことだ。
2022年の師走に気付いたことは、
そんな「想い出」へのこだわりを手放すことだった。
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