「不登校の大半は親の責任だ」発言からみる小椋市長の願い、あるいは全体と個の対立について
東近江市の小椋市長の発言が批判を集めている。
不登校の大半が親の責任かどうかについては、議論の余地はなく、そんなわけがないと言い切りたい。そもそも責任とはなんだ。不登校になるのは、いけないことなのか?
市長の願いは何か
このnoteでは市長の発言を糾弾したいわけではない。あえてこのような発言をした市長の心の底に、どんな願いがあったのかという視点を持ち、そこからいまの日本の義務教育の現状と、市長と市民の心理の乖離について思いを馳せてみたい。
ここからの内容はあくまであらゆる発言からぼくが類推した内容で語っていくので、その点はご了承いただきたい。願わくば市長に直接話を聞いてみたい。
まず市長の発言の真意を探る上でまず簡単に時系列をおさらいしたい。
この発言が飛び出したのは10月17日におこなわれた「しがの学びの保障プラン」に関する意見交換の場だと思われる。
下記資料にその予定が記されていることから推察できる。
https://www.shigaken-gikai.jp/voices/GikaiDoc/attach/Nittei/Nt18867_13.pdf
ここで市長は「文部科学省がフリースクールの存在を認めたことにがく然としている」「不登校の大半は親の責任だ」などと発言した。
市長はこのあと10月25日の会見で次のように謝罪を述べている。
この発言を見た上で、この謝罪の前の発言についても見ていただきたい。
以下にぼくが矛盾を感じた発言を列挙する。
この発言から小椋市長は次のように考えていると思われる。
文科省がフリースクールの存在を認めてしまうと、公立学校に頑張って通って
いる子ども、もしくは行かせている親がフリースクールを選択してしまう。そのことが国家の根幹を崩してしまう。
願わくば、キツくとも、頑張って、公立学校に通わせなければいけない。それができないのは親にも責任がある。嫌々通わせる努力をしていないんじゃないか。
そんな思いが見え隠れする。
義務教育に嫌々でも通わせることが国家を成り立たせるためには必要だという願いがあるように思う。小椋市長の思う国家が成り立つとはどういう状態なのだろうか。小椋市長の思う国家の理想とはなんなのだろうか。
もしくは、フリースクールに大半の子供が雪崩れ込むとどんなことが起きると恐怖しているのだろうか。
こればかりは小椋市長に直接訊いてみるほかない。
ぼくはそのような対話の不足がメディアの抱える問題だと思っている。
糾弾するだけではだめなのだ。小椋市長はなにも日本を滅ぼしたいわけではないし、不登校児を追い詰めたいわけではないはずだ。
見え隠れする全体と個の対立
ここからは全面的にぼくの持論になる。
今回の問題の奥底に流れている思想として、全体のための個という考え方があるように思う。個が規範を守ることで全体としての秩序を保ち、みんながある程度幸せになることを目指そうという考えだ。
一方で不登校の子どもやその親からすると、学校や国は自分たちを守ってはくれないし、もはや信用ならない。なぜ決められた教育を押し付けられなければならないのか。と考えていると思う。型にハマることができなかったわたしたちは異物なんですか?と。
ぼくは、みんな好き勝手すればそれでいいじゃんというリバタリアン側の人間ではあるけれど、それを押し通したいわけではない。国や組織には個を救う力があると信じている。
「はみだしてしまった個にどれだけ手を差し延べられるのか」これがむしろ国家の役割だと思っている。
そこに寄り添わなければ、全体のために、手を差し延べてくれた国のために、何か自分もできるんじゃないか?といった思いは生まれてこない。
小椋市長が国が成り立つことを真に願っているのであれば、それははみ出してしまった個を無理やり引き留めることでは叶わないんじゃないか? むしろ個に手を差し延べる姿勢を見せるからこそ、国民一人ひとりが力を発揮し、まわりまわって国全体を豊かにすることにつながるんじゃないか? このような問いをぶつけてみたい。
実際このような発言をする市長がいる東近江市に子育てをしたいとおもって移住する人がいるだろうか。市長にはぜひそこを考えてみてほしい。
こんぶにできること
この問題を見てこんぶにできることは何かと考えた。フリースクールがどのような仕組みで成り立っているのかまだ勉強不足ではあるが、幸い自分にはFlutter別荘という場所がある。言い忘れていたが、Flutter別荘は東近江市にあるのだ。
この場所は日中特に何をするわけでもなく放置されている。
ここに公立学校に行きたいくない子どもの居場所となるような仕掛けがもしかしたらできるかもしれない。
自分にできることをひとつずつやっていきたい。
ぼくは全体は個をより豊かにするために存在し、その個が全体を豊かにするはずだと信じている。