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考えない生き方


考えない生き方が理想

俺の中で考えない生き方が理想であると思っている。
考えない時間は何よりも尊く、考えない時間に気温、匂い、光、音がちょうど良い場所にいることは素晴らしい。
それでとっくに満たされている。
そこに氷の入れた生茶とか、午後の紅茶の無糖とか、アイスコーヒーとか飲んじゃう。
最高だ。
これ以上のものはない。
これは実感でしかない。
考えない状態ではなく、考えて何かを求めたり、何かを内省し始めると、心がざわついたり、取り留めもない考え方になったりしてあっという間にしんどくなってしまう。
だから頭の中が無音で空っぽであることは、そのほかの感覚を十全に楽しめてすごく好きだ。

できるようになることを楽しいと思うとしなくていい

できるようになることって楽しいって俺は思ってた。
でも、それは例えばゲームとかができるようになるってのが楽しいってことと同じ意味しか持たない。
それが現実で使えたりするとなんかいい感じってだけ。
できるようになることを楽しいと思おうとするのも少し違う。
それは社会に要請されてそう思おうとしている気がする。
今までの自分はいろんなことができるようになってきたけど、そこに対して自分はできる人間だとか、自分はあんなこともこんなこともできるようになったと思うのは少ししんどい。
でも、何もできないわけじゃないし、できるようになってきたことも確かで、それに対して、いやいや普通ですよと謙遜するのも違うなと思う。
心をもっとふわっとさせておけばいい。

ここからの人生は全部がおまけ

生きることって難しい。
頭を空っぽにできて風呂上がりに布団でダラダラできたら人生100点だ。
そこから先は、おまけになる。
ふわっとおまけを触っておけばいいと思う。
さらっと触っておけばいい。
あんまりおまけについても考えないし、おまけがついてくると嬉しい。
それくらいのものだ。
人生の本編は常に生きているということにあると思う。

金がなくても死なない

金がなくても死なない。
社会がそうなっているから。
ホームレスの人はもしかしたらそうでない人に比べると早死にするかもしれないけど、いうて60くらいは普通に生きてる感じする。
病気になっても死なないし、働かなくても死なない社会を作ってくれてると思う。
まぁ勝手に生きればいいし、なぁなぁに生きれる人も結構多いともうからさ、なぁなぁに生きればいいと思う。
そんな社会で、どう生きるかとか意味とかを考えてしまうけど、こういう時は頭の中で画像をイメージすることにしてる。
天空の城ラピュタが崩れる時にまだ崩れてないところに例えば寝てるとして、僕らの寿命が崩れ落ちる前に終わるとしたら、多分僕らはラピュタの上で幸せに暮らせると思う。
なんかそんな感じ。

何をするかとか何をしないかとかも考えなくていい

何をするかとか何をしないかとかもあんま考えなくてよくて、優先順位とかってあると思うんだけど、そういうのもあんまいらない。
もっとゴリッとする時はゴリッとするんだろうし、ふわっとやってる時はふわっとやってるんだろうし、すすっとやってる時はすすっとやってるんだ。
ピピっときたものに対して、スタスタと歩いて行ってちょこんと座って、ささっとやる。
それが頭を動かさずにできるってのがやっぱり最高だと思ってる。
それって生きる意味あるの?って中学校の俺なら聞きそうだけど、意味はないけど意味がある。
そんなふんわりした存在が僕たちだから。
生き物なんてさ、ふんわりしてて、矛盾があって汚くて辛いものじゃん。
ただふんわりあろうとしてみる。
辛いこととか矛盾とか汚さとか一旦放っておいて、ふんわりしてみる。
曖昧で、意味がなくて、感情があって、知恵が働いて、エゴがあって、しょうもないことばっかしてる生き物。
そんな生き物だから、ふわっと浮かんでスッーと生きてみる。
そんな感じ。


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