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行為における秩序と破壊


人間のモード、秩序と破壊

人にはモードがいくつかあると思っていて、その一つが秩序のモードである。
例えば、学校のチャイムに合わせて動いたり、小さい頃にはきちんと九時に寝ていたり、計画的に受験勉強をしたりするのがそれである。
一方で、破壊のモードもあると思っている。
それは、スマホで時間が過ぎてしまったり、やらないといけないことの時間を過ぎてしまったりした時、テストが終わった翌日に朝までゲームをやってしまった時などだ。
もう一つ秩序に戻ろうとしているモードもあると思う。
破壊のモードは完全に秩序が破壊されていて、頭の中に浮かんでもそれを実行しようという体力ややる気などは起きない。
ただ戻ろうとしているモードは、うわぁやる気起きないなぁ〜と思いながら、戻ろうとする。
このやる気起きないなぁという気持ちに打ち勝てると秩序に戻ることができると思う。

秩序モードになるとき

人間の生活の中でいくつか秩序にモードに自然とリセットされるタイミングもあると思っていて、朝起きた時や、考えがまとまってやる気を出した時などが秩序のモードに戻るタイミングだと思う。
皆さんもよく、計画を立てきったら完全にやる気になっている時があると思うし、日曜の朝に起きて、ゆったり白湯などを飲みながら家事をしている時間は次はこれをしよう、あれをしようと思えているはずだ。
これが秩序のモードで、秩序の中にあるし、秩序の中にあることをそれなりに心地よいと思えている。
ただ、秩序のモードは続かないという性質もあると思う。
秩序のモードは、一般的に非常に疲れるものだと思う。
これは疲れていると認識しているだけの可能性もあるし、本当に疲れている可能性もあるが、なんとなくここまでやったし、休憩させてあげようと日曜の15時くらいに思ってスマホを開くと気がつけば19時になっていたりする。

破壊モードとは

テスト後の破壊はすごく代表的だし、受験終わりに、一気にドラマを見始めて、1週間くらい経つと、もう勉強のことを忘れ始めていたりするのが、破壊モードであり、本当に簡単に秩序は崩壊するという性質もあると思う。
そして、なぜか人は破壊を比較的求める。
破壊が気持ちがいい。
ルールを破るのが大変な快感である。

こっちに言っちゃいけないと言われたらいきたくなる。
学校にゲームを持ってきてはいけないと言われたら持っていきたくなる。
毎日三十分しかゲームをしてはいけないと言われれば3時間やってしまった時は脳が疲れるのと同時に、なんだかものすごく大人になった気分になったりする。
大学の試験の前にはなぜか徹夜をして、モンスターを飲んで、朝の四時にコンビニに行って安いパスタを買ってきたくなる。
修学旅行の夜は徹夜をしたくなる。
仕事が終わった週末の朝は好きなだけ寝ていたくなる。

秩序や習慣を壊したくなる理由

人間はルールを守るという行為におそらく脳のリソースを割いていて、それが習慣化していたとしてもそれなりに負荷として存在しているのだと思う。
だからなんとなくそれを破壊したくなるし、破壊した後はものすごく気持ちがいい。
ただ、そこまで作ってきた秩序の自動化のプログラムを停止させているわけではなくて破壊しているので、その修復にはまたエネルギーが必要で、戻すときにものすごいエネルギーが必要で面倒だと思うのである。
とどのつまり、秩序のプログラムをまた使いたいのなら、秩序のプログラムを破壊してはいけない。
なんの考えもなしに、今日は自由!としてはいけない。
秩序のプログラムを停止する秩序を使わなければいけない。
習慣を一旦やめるてもう一度始めるというルールを決めて、それに頭のリソースを割かないといけない。

社会的な秩序に対する破壊

今家に引きこもっている人は、もしかすると破壊のモードにあるかもしれない。
ただ、それは社会通念上の秩序に対する破壊であるかもしれないし、もしかするとみんなが引きこもってゲームをしている世界では、破壊は外に出てお金を儲けていることかもしれない。
破壊に関する一つの仮説として、なんとなく秩序っぽいなということ、なんとなく自分を縛り付けている気がしてしまう行為というのは、頭を使う必要がある一方で、頭を使わなくていい行為は自動行動になってそれは秩序に対しては破壊であると思う。
だから、世間でこれをやりなさいと言われている行為などに対しては、頭を使わないといけない、自分を律さないといけないと思っている人にとっては、そうではない行為が自動行動になる可能性もあると思う。
例えば友達はゲームが自動行動のようである。
四六時中ゲームをしている。
他の友達は一生散歩している。
他の友達は一生虫を取っている
僕は一生動画を見ている。
動画を見続けることをできない人もいると思う。

行為の計画は自分を縛っているように感じる

秩序と呼んでいるものは、結局行為のことで、そのために頭のリソースを使う感覚がなんだか自分を縛っているもののように感じる。
次にこの行為をやろうという心の声は、この行為をやるというルールを頭に作るが、それをやらないことで自動的にその秩序を破壊できる。
この破壊が少し気持ちいいし、しかも自動的にできることでその破壊を行うので、コストも秩序化よりも少ないのである。

長期的な秩序は破壊より強い時がある

僕は必ず風呂に入るが、その時一瞬脳が秩序っぽくなると思う。
でも別に風呂に入るのが面倒なわけではないし、いやでもない。
入りたいと強く思っているわけでもない。
ある種の長期的な、生理的な習慣になっているのだ。
こういった根強い秩序は破壊の中からも勝手に生まれてくるのだけど、やっぱり秩序で、頭は破壊の時のぼんやりして、ボッーとして不健康な感じからは少しよくなっている。

秩序を求める気持ち


破壊的な自動行動より秩序的な自動行動

秩序にコストがかかるなら、自動行動をずっとやっていればいいではないかという意見もあるかもしれない。
それの方が省エネであると。
もちろんそれでもいい。
でもそれで僕が見たい僕を見れるだろうかというとそうではない。
社会は秩序の塊、行為の塊なので、そこで暮らそうとすると破壊はコントロールの反対のなのでコントロールできないわけだから、マジで運に任せることになる。
それもいいかもしれないけれどね。
僕の場合は、好きな実況者やvtuberに詳しくなるという効果が得られるだろう。
破壊によって得られるのはそれだけだ。
そして破壊によって僕はyoutubeやtwitchなどにおける文化や知識を習得したとも言える。
でも、それを発揮するのは秩序なのだ。
意図的に発揮しようとすると秩序が必要になる。
行為しようという気持ちが必要になる。
だから発信的な行為としては、破壊の時はただ感想をTwitterに垂れ流すだけである。
破壊の状態の自動行動はその程度のものである。
何かお金を産むものではない。
お金を産む行為は行為の中でも作戦を練って周到に実行されるものが多いが、それでも失敗することの方が多い。
ただ、一方でその自動行動に自分がちょっとコストを払っても自然にできちゃうような行為が隠れていることがあるから、それらを一概に否定もできない。

行為をしようと思ってする行為と、ただ破壊的に行う行為では、なぜか破壊的な行為の方が吸引力が強いのだけど、破壊的な行為の自動行動と秩序的な自動行動では雲泥の差がある。
同じ楽にできる行為なら秩序的な方が効果は高いと思う。

刹那と秩序は両立する

では破壊的な行為をやってはいけないのかというとそんなわけはなくて、スタンスの問題だと思う。
別に破壊的に生きてもいいに決まっている。

破壊的な行為というのは刹那的な行為ともまた違うと思う。
刹那的な行為には今あることを破壊してただ揺蕩いたいというものと、刹那的にこれがやってみたいからやるというのでは違う。
刹那的で破壊的というのはあるし、刹那的で秩序的というのもあると思う。

秩序を求めるのは行為を求めること

僕は秩序的な行為を求めている。
なぜなら行為をしたいから、行為をするときには「したいな、しよう」と思う必要があり、そのときに自分にレールを引いてしまう。
自分に縛りが発生する。
その脳のコストに僕たちは疲れさせられているのだけど、一旦それをしてみようと思う。
秩序というとものすごく不自由なものに感じるかもしれないけれど、これがやりたいという行為を自由にやることの延長にあるだけのことだと思っている。
なんなら行為を行う意思がそのまま秩序であると感じている。

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