絶望はラーメン屋の前にあった
エンタメから自分の人生へ
エンタメに対して、その依存性を制御するために一定の距離を置いてみると、エンタメは陳腐化して面白く無くなる。
面白くするにはまた時間をかけてそれにのめり込む必要がある。
一旦エンタメと距離を置いて、では何をするかというと、人生を生きてみようということになる。
自分の人生を生きる。
例えばラーメン屋に並んでいて、いつもならスマホをいじるところを自分の人生を生きてみようと意識してみる。
何をするだろう。
将棋棋士は将棋の勉強をするかもしれない。
芸人はネタを考えるかもしれない。
じゃあ、レジ打ちは何をするんだろう。
引越し業者は何をするんだろう。
事務職は何をするんだろう。
ラーメン屋の前の絶望
僕は実際にラーメン屋の前で、何もできなかった。
自分自身の空虚さに絶望した。
デジタルデトックスをしていて感じる暇さというのは、自分の空虚さや自分の中身のなさである。
そこでスマホを取り出して動画を見るという行為の本当の意味を理解できる。
スマホを取り出して動画を見ていたのは、それを忘れるためだ。
自分が空虚であることをなんとかして埋めようとしているのだ。
僕はラーメン屋の前でその空虚さを感じた時に、じゃあ新しく自分を作り変えていくために何か調べ物をしようと思った。
何かを調べることで自分を増やせるように思った。
でも何を調べたらいいんだろう。
この延長線上にyoutubeもtwitterもある気がする。
何を調べたらいいかわからないからとにかく情報が降ってくる世界に佇んでいる。
でも情報が降ってきても、それを自分の人生にできない。
だからエンタメから離れると自分の量が増えていない。
だからまたラーメン屋の前で絶望してしまう。
エンタメの機能
そうしてエンタメから離れてみて、どうしても耐えられずに、好きな芸人のラジオを聴く。
なんて素敵な行為なんだろうと思った。
エンタメの価値は、ここにある気がした。
空虚な世界を埋めるという価値である。
もしくは気分を少し高めたり、気分を紛らわせる機能である。
でもやっぱりそれでも自分自身の人生を生きたい。
そうなってくるとやっぱり行為が必要である。
行為をしていれば、なんとなく自分が生まれてきて、行為をしていればなんとなく気分も復活してくる。
でも行為の選び方は全くもってテキトーであって、自分の人生を生きているのか、意味のある生き方ができているのか、この行為で持って自分を説明していいのかわからない。
たとえその行為が仕事であっても勉強であっても音楽であっても。
かといって行為を完璧に選ぶことも難しいし、1年かけてみたってそんなことはできない。
常に仮説で行為を選ぶしかない。
となると行為を行なっていくしかないのだ。
自分というのは、どうやって作られていくだろう。
自分の人生というのはどうやって生きていけるだろう。
人間は、道具的だけど、本質に先立つ
僕たちは道具的でもあるし、これから人生を作っていく存在でもあると思う。
道具的であるというのは、一定の能力があって、向き不向きがあって、どの国で生まれて、どんな病気を持っていて、どんな親に育てられたかというようなことに、僕たちは少なからず規定されてしまうということだ。
でもそれだけではなくて、僕たちはラーメン屋の前の空虚さのように、意外と時間があって、意外といろんな行為をできて、いろんな勉強もできて、いろんな楽器を習得する時間もある。
だから目の前の空虚さは自分の可能性や、自分の人生の余白でもあるのだ。
ではこの余白にどんな絵を描こう。
苦しいときにはすぐに絵を描きたくなるし、今まではそうやって決めてきたようにも思う。
描き方はともかく、自分を描く
仮説はいくつかある。
例えば自分の好きなように生きる、好きな絵を描くということ。
例えば、気分が良くなるように生きる、気分が良くなるように絵を描くということ。
例えば、自然体で生きる、勝手に書いちゃうように描くということ。
どれも正しいような気がする。
でも自分を生きるというからには自分を大切にしたい。
自分でありたい。
自分という人生を組み上げたい。
今まで僕は自分という人生を生きて来れているだろうか。
でも少し変な生き方をしてきて、それはそれで満足しているのだ。
その少し変な生き方に僕は自分のアイデンティティを感じている。
特段、得をするために生きているわけでもなく、なんでそんなことしてるの?みたいな感じで生きていたい。
変に自由でありたい。
キャリアなどから外れていたい。
どうして僕はこんなことを思ったんだろう。
好きだからなのか、気分が高まるからなのか、自然体だからなのか。
どれもそうだし、どれも違うような気がする。
僕の中の、僕像がきっとあって、その僕像に近づくための努力を僕は今までしてきたように思う。
変な僕像をなんとかして作っていく。