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私と素数と生と死と③(ADHD障害を持つ私の自分探しの旅)

素数はとても美しい。
そんな言葉をよく耳にする。
古くから人類の興味の対象で、さまざまな研究が素数に対して行われ、様々なことが分かってきた。
しかし、素数については未知なこともまだまだあり、その全貌が知られてはいない。
素数は正直に、ただ純粋に知りたい、そう願った人間の想いに、愛情の分だけ答えてくれる。
そうして想いを込めて尽くした分だけ微笑んでくれる女王のようなところが、素数の美しさだという。

数名な数学者、レオンハルト・オイラー も素数をこよなく愛した一人である。

そんな一部の人間からこよなく愛される素数だがまだまだ未知な部分が多く、しばしば数学界において、イロイロな公式を見つけようと必死になっている数学者の頭を悩まし続けている存在だ。スーパーコンピューターでさえまだ50個しか、みつけてない素数。

そういった意味において、素数と私が似ているならば私もまたこよなく一部の誰かにとっては素敵なモノになるのかもしれない。しかし大勢の人間に愛されたいと願う私にとっては素数はいささか可哀想で孤独な数字にしかみえないのである。

皆から愛されたい、必要とされたいと強く感じるのは人間という生き物はそこに存在価値を見出したいという欲求が深いのだろう。
いわゆる承認欲求である。
SNSでも多くの人からイイねボタンを押してもらいたい、バズりたいなど、色々あるがそれらも全て承認欲求の一部の現れだと思う。

子供は親から無償の愛情を注がれることによって自分は自分らしく生きていくことができるようになると言われている。
しかし、親から無償の愛情をもらっているという感覚が希薄な子供はとにかく親から認められたくて常に高い目標を抱きがちだ。背伸びを常にしているのだ。
簡単に言えば、親を困らせないように、親の期待に応えたい、親にこちらを向いてほしいと願い、親の気持ちを優先して自分という存在をかき消してしまう。自分の心の声には耳を傾けない、聞こえないふりをしてしまう。

我が家の場合も幼い頃から私は、祖父母の病院通いなど、忙しい母の邪魔にならないように、小学生になれば成績優秀な子でいなければいけない、などといった、親の期待に答えることだけに常に心を砕いていた。
片付けられない私は常にきょうだいと比較され、「お前はドブ川から拾ってきた子だからキレイにできないのだ」など、きっと今思えば親は無神経かつ深い意味も持たないで発言した内容だったであろうその一言に深く傷つき、私は生きていても良いのだろうか?などと幼くして死への欲求が深い子だった。

幼稚園はキリスト教系で、毎週日曜礼拝があった。
幼稚園が嫌いな私でもこの日曜礼拝にだけは欠かすことなく参加した。 キリスト様が描かれた美しいカードや聖書の中の一言一言に感動しわたしの心の拠り所となると同時に、早く私もキリスト様のいらっしゃる場所へ行きたいと心から願っていた。
天国に行けば私の事を無条件に愛してくださる存在がいる。
どんな私でも受け入れてくださるキリスト様、マリア様は当時の私にとって、崇高で清らかで私が願った自分になる方法を導いてくれるような気がしていたのだ。

親からの自分への承認欲求が満たされない虚しさを解消するにはどうしたら良いのか?
明確に誰かが私を認めてくれる数値や出来事、例えば成績であったり表彰されるといった事柄があれば、親にも誰かにも認めてもらえると知り、無意識に私はそこに全力を注ぐようになる。
その一つが勉強であり、学校での通知表だったり表彰だったりであった。
幸か不幸か、私は勉強だけは良くできた。
これは決して地頭が良いというわけではない。
ただ、与えられた問題を回答を、期待している側の立場になって暗記していただけの話で、根本的な事を理解した、頭が良いとは全く違う。
そもそも当時は詰め込み教育のど真ん中でとにかく頭に必要な箇所さえ丸暗記しておけば、学校やテストの成績は必然的に良くなるだけの話だ。そしてADHDの特性として過集中と言うのがあり、暗記は得意だった。

今では全く、不得手な分野であるが絵のコンクールや写生大会など、表彰されることもあり賞状を貰ってきて両親から褒められる、認めてもらう事に必然と全力を注いでいくことになる。無論、それも無意識で。

誤解ないように補足すれば両親は決して私の事を愛していない訳でもみとめてない訳でもなかったと思う。
両親なりの愛情を注いでいたのだろうし、虐待をうけていたわけでもない。
ただ、私が求めていた愛情と彼らが注いていた愛情のボタンが掛け違っていたのだろう

ここで少し、両親について簡単に説明すると父は男兄弟4人の長男として、いわゆる家長として家を支えていくように、父もまたその両親から無言の圧力があったのかもしれない。そして、今だから理解できるのだがおそらく父はアスペルガー症候群の傾向があるのだと思う。
もちろん私は専門家でもないし、医師からそう診断されたわけでもないが、父は人の意見を全く聞かず自分が思い込んだら最後、意見を曲げることは絶対にない。人が嫌がるであろう発言や言動をするので、人が集まる場所でその場の空気を読まず不躾な事を言うので家族としてはヒヤヒヤしている。学業も振るわなかったようで、中学を卒業してすぐに働きに出ている為、自分でもコンプレックスなのか、常に口癖は「俺には学がないから難しい事はわからん」である。

母は、田舎のいわゆる昔の地主の4人兄妹の末っ子として生まれた。
その為変なプライドがあり、少し人を見下す事が多い。
広大な土地と豊かな資源がある中で、豚や牛や鶏や農作物や蚕さんを飼っていたりと田舎の中のお嬢様感覚があるのだろう。
しかし、彼女も所詮井の中の蛙。世の中にでればもっともっとお嬢様はたくさんいる中で、お見合い結婚で見ず知らずの土地でましてや長男の嫁とて、気が休まる事もなく、その苦労は私には計り知れない。新婚生活においては義両親に加え義理の弟2人が同居する中でスタートしたので、甘い新婚生活というよりも、感覚としたら丁稚奉公のような気持ちだったのかもしれない。あくまで私の推測だが。

家長制度が色濃く残る家でのスタートは、働いて収入を得ている人間が一番偉くて、祖父父叔父達は女子供よりもおかずの品が多いのが当たり前だった。
海苔なんて高級品で子供達は滅多に食べられず、祖父が誰もいない時にこっそり私にくれるのが楽しみだった。
祖父は戦争で体を壊していたので仕事は休みがちで、無口ではあったが私の事はよく可愛がってくれた。
祖母は和裁が得意で、よく家で仕立てをしていた。
その側で私は色とりどりのまち針を綺麗に並べるのが大好きだった。
しかし祖母は大正時代の女。モノがない中で生きて生き抜いたのでとにかくモノを大事にする人で、それは自分の子に対しても孫に対しても相当厳しく躾られたものだ。
お米ひと粒でも残せば叱られるし、落したものでも拾って食べさせられた。
柄が壊れた柄杓ですら、お鍋代わりにして使っている人だった。
そんな、少し貧乏くさい口煩い祖母は少しだけ怖くて苦手な存在だった。

続く。

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