私と素数と生と死と⑥(ADHD障害を持つ私の自分探しの旅)
※※※一部センシィティブな内容が含まれております。体調の優れない方、感受性の強い方などは、影響を受ける可能性がありますので、ここから先を読む場合は慎重に読んでください。少しでも気分が悪くなる恐れがある方は、こちらのページは飛ばして読むことをおすすめします。(書いている本人がフラッシュバックを起こしてしばらく立ち直れなくなりました。)※※※
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小学生時代はADHD特性の際立った面や皆と違うと思われる部分も、自分も周囲もおそらく許容範囲としてなんとか立ち居振る舞いをしてきた私だが、中学生になると、子どもたちも思春期に入り、親の庇護から少し離れ子供同士の価値観に基づいて行動をし始める様になる。
親が絶対的な権力をかざして押さえつけていた部分にも、子供ながらに矛盾を感じ反抗的な態度をとるであろう。
だが、それは健全な親からの自立の一歩であり人格形成において、大切な過程の一つだと思う。
それと同時に、親や大人からの庇護を離れるということは自分の身は自分で守る術を身につけるという事でもある。
しかし今まで雛だった小鳥がいきなり大空を華麗に飛び舞えるわけはなく、時には躓き、自分だけでは解決できない問題に子供がぶつかる事もあるだろう。そんな時に親はあるいは養育者は、それとなくその困難に立ち向かうべき勇気を与え、見守り、傷付いた時には羽を休めるために帰る場所、安心出来る場を提供するものだと私は思うのだ。
賛否両論あるだろうし、それが絶対的なものだとは主張するわけではないにしても、私は自分の子供にはそうしてあげたいと思うのである。
ただただ傷付いた羽を休める為にある場所。
無条件に「おかえり」といって、そばに寄り添うだけの存在で有りたいと願っている。
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そんな複雑な時期に私はいじめにあっていた。
理由はよくわからない。いじめていた側にもそれはそれなりの理由があったのかもしれないし、私自身に落ち度があったのかもしれない。
今となっては原因はわからない。
しかし、その虐められていたと言う事実は当時の私にとっても、また大人になった今現在にも暗い影をおとし、今尚その恐怖に苛まれているのである。
ある日学校に行けば仲の良かった友人から突然挨拶を無視をされる、移動教室の際には先に行ってしまい待ってもらえない、給食時にもあからさまな無視があり会話が出来ない。
学校に来るなと言う手紙が入っていたり、クラスでグループ分けをする際の話し合いの場で皆の前で「まっこさんと同じグループになりたくありません」と言い放たれる。
今の私なら?「ならグループに入れてもらわなくても結構です!!」と下らない事として、言い放つ事も一人狼的な存在として全く持って下らない事として立ち向かう事もできるであろう。しかし当時の子供を取り巻くコミュニティーはとても小さく、そこだけが自分の人生の全ての世界であると思い込み、そこ以外の居場所を見つける事はとかく不可能であった。そして、そんなイジメられた日の帰りは悔しさと悲しさと憤りと、とにかく色々な負の感情が大きく昂ぶり動揺しやり場の無い怒り哀しみが渦巻いて、駆け足で帰ろうとすればするほど、気持ちだけがせいて、足はもつれ躓いて膝小僧に大きな擦り傷をつける程の転倒をしてしまった。
悔し涙も流せない程の、傷の痛みに気が付かない程の、膝小僧の擦り傷よりもより大きな深い傷跡を心に残して。
同時の私は「この膝の傷が癒えれば心に負った傷なんて大したことない。忘れてしまえばなんてことない」と思っていたが、
実は身体に背負った目に見える傷よりも心に負った目に見えない傷の方が何倍も辛く悲しくいつまで経っても癒やされないと言う事に気が付くのは大人になってからだ。
(転んだ時に出来た膝の傷は未だに残っている。)
そんなまだ残暑が厳しい時から始まったいじめ生活の、唯一救いの場であったのが塾であった。
違う学校の友人や先生と話す時間は当時の私の唯一無二な安らげる場所であった。
しかし、安らげると思える場所にいながらも心は常に死を渇望しており、窓の外から見えるビルの屋上から、今日死のう明日こそ死のうとそればかりを考えていた。
そんなイジメは中学2年の夏休み明けから中2が終わるまで一部の生徒より続いたが、
捨てる神あれば拾う神ありで、段々とイジメを行っている側の理不尽な言いがかりや態度に飽き飽きしてきた男の子や、いわゆる当時で言う不良の子達がはっきりと「そういう事する方がダサい」ときっぱり言ってくれて、その子達本人たちは私を助けようとした気持ちがあったのかないのか確かめようがないが、私からすればそんな男子生徒や皆から1歩置かれている友人たちは神様の様な存在だった。
彼らが居なかったら確実に今の私は存在しておらず、彼らには感謝してもしきれない。はずなのだが、しかし生に執着していない私は心の底の感情はなんと形容していいのかわからないというのが本音だ。その仲間とつるむ事はあっても、決して学校の規則を破るだけの度胸もなく、先生の言う事や脇道にそれる事もなく、自分自身に不甲斐なさを感じながらも常に【良い子】と言う枠からははみ出す事が出来なかった。
そんな不安定な精神状態を送っていた私の異変に気付いたのは担任の先生であり、毎日学校に提出する学習日記の返信欄には私を気遣う文面が書かれてはいたが、私自身、イジメ被害にあっている事を素直に担任の先生に訴える事はしなかった。いや、出来なかった。
先生に言ったところで変わる事もないだろうという思いもあったが、やはりそこは思春期。
自分がいじめにあっていると言う事を誰かに知られる事は避けたかった。勿論親には特に。
イジメ自体もどんどん激しくエスカレートしていったわけでもなく、私さえ我慢すればという思いで歯を食いしばってお風呂場で泣く日もあったが、堪えていた。
私は学校の成績だけは良かったのでそれも功を奏していたのであろう。
常に学年トップ3以内にいた私をあからさまにいじめる事は彼らにとって、内申点に響くかもしれないという打算的な面もあったに違いない。
(埼玉県では、悪名名高い【北辰テスト】と言うものがあり、この成績は高校進学の際には非常に重要視されると噂されていた。)
ただでさえ心も身体も不安定な中学2年生という年齢に、学校で安心出来る場を奪われ、思春期の真っ只中を誰にも頼れずに過ごした私はそこから徐々に心の均衡が保てなくなっていったと思う。
(今でも変わらない部分ではあるが)無意識に私は、"親ならば、特に母親ならば敏感に私の変化に気付いてくれるのではないか"と期待をしていた。
本能的に救いを母に求めていたのだ。
声に出して言わなければ伝わらない、とよく聞く言葉だが、私は親にだけは、親だけは言葉にせずとも、私自身声を出さないように蓋をしてしまった悲鳴も、私が耳をふさいで聞こえないふりをしている言霊は親には、届いていて欲しいと絶対にわかっていてくれると切望して期待していたのだ。
仲間がいない素数だけれど、"1"である親にだけはわかってほしかった。
続く。
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