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人間が死ぬということ

(1998年1月28日 山口ゼミ機関紙「KNOSPEN」より)

 伊丹十三が亡くなったのは、去年の暮れのことだった。伊丹監督の映画にそれほど入れ込んでいたわけではなかったが、画期的な映画の手法に惹かれていたので、もっと多くの作品を作ってほしかった。時を同じくして、去年僕が受講していた「書道」の教授が突然亡くなった。昔から病気がちだったらしいが、ついこの前まではいたって元気で、気さくないい先生だった。今年に入ってから、バイト先の病院で、救急車で運ばれた老人が亡くなった。死因は高齢のためだったらしいが、目の前で運ばれてきた人が数分後に亡くなるという状況は、とても他人の死とは思えないような何かをじさせられた。

 そして、Nさんが亡くなった。突然のことだった。よく歩き、よく食べ、よく話し、よく学び、健康面での不安要素など皆無に思えた人の突然の死だった。

 Nさんとは、このゼミに入ってから約2年ほどのお付き合いということになるが、初めて個人的にいろいろ話をしたのは、たしか下町ツアーでのことだった。それまでは、「KNOSPEN」の記事でしかNさんの存在を知ることができなかった。下町ツアーは、そんな僕の中のNさんの存在を、「もしかしたら今、目の前にいるこの人は、噂通りのすごい人かもしんない」と大きく変えさせる契機となるものだった。歩き疲れた若人たちをしりめに先頭をきって歩きながら、たくさんの場所を案内してくれたNさん。当時は、そのエネルギーの源がいったい何処にあるのか、不思議でならなかった。

 そして、今でも一番印象に残っているのは、足の指を骨折してしばらく入院した後、初めて教壇に復帰したあの特別講義の日、包帯を巻いた足を引きずりながらも、嬉々とした表情で、いつにも増して熱く講義していた姿である。講師を引退した最終講義以来、初めての講義だったということもあるのだろうが、歩き、学び、語り、教えることが、心底好きな人なのだと、改めて確信させられた日であった。そしてこの世のどんな力も、この人を黙らせ、留まらせておくことなどできないのだとさえ思えた。

 「こういう職業にむいてるんじゃない?」と、僕の拙い投稿を誉めてくれたのもNさんだった。どうやら娘さんにも「KNOSPEN」を見せているらしかった。自己満でも勘違いでもいい。この人に誉められたことなら、僕の一生涯の誇りと自信にしていける。

 初めての卒研(卒業研究ゼミ)でクソミソに突っ込まれ、ただならぬ動揺を抑えながら、必死に平静を装っていた時も、いろんな話を聞かせてくれた(そういえばあの時、Nさんもボロクソに突っ込まれてたっけなぁ。親近感を覚えてくれていたのかなぁ…)。思えば、あらゆる場所で、あらゆる場面で、このゼミを支えてくれていた人だった。

 亡くなった人間を美化したり、神格化したりするつもりはない。人間だれしもいずれは死ぬ。人の命なんて所詮はかないものなのだ。今、ここに自分が生きていることでさえ、何万、何億分の一以下の確立かもしれない。だから…。だからこそ、「日々をいかに大切に生きるか」が、想像以上に大事になる。死んでからではもう遅い。親孝行なんかはまさにそうである。どんな立派な葬式をしようが、どんなに多額の香典を贈ろうが、亡くなった人が生き返るわけでもないし、その本人にとって何かの慰めになるわけでもない。問われるのは、お互い生のある間に、生のある者同士として、どれだけの「生きた」交わりができるかである。

 長い人生の中で、数えきれないほどの生と死に巡り合う。自分はどれだけ人の生と死を受けとめ、学び、それに応えることができるのか。人の生き死になんて誰にもわからない。それこそ、「神のみぞ知る」である。今日はなんらかの理由で、「自分」ではなく「あの人」が死んだ。「あの人」より、わずかながら生きながらえた「自分」は、「あの人」よりも何を成し得るのだろうか。「あの人」に代わって何を成し得るのだろうか。何をしなければならないのだろうか。

 以前、「トトロ」だの「ドラえもん」だのと失礼極まる紹介をしたことがあったが、ここであえてもう一度、N・Iという一人の敬愛する人物を表現するとすれば、

 立てば教員、座れば学者、歩く姿は探検家

 だろうか。本当に、人生の最後まで、学び続け、歩き続け、探求し続けた人だと思う。願わくば、もっと多くのことをNさんから学びたかった。今まで色々とお世話していただき、本当にありがとうございました。

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