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「宗教、応答せよ」

『宗教改革2.0へ ハタから見えるキリスト教の〇と✖』(2018年、ころから)編者解題より抜粋。

「安全」で「安心」なアブナくない宗教

 90年代末。新自由主義の煽りを受けた公的機関の民営化や大学の独立行政法人化が顕著な例だが、「公共」への企業原理の導入により、中・長期的視野が求められる研究機関にも成果主義・競争主義がなだれ込んだ。結果が見えにくい人文系の学部は予算を大幅に削られ、就職活動では「即戦力」にならない文系よりも、技術を身につけた理系のほうが有利だと、まことしやかに語られている。

 合理性を追求することは場合によって必要である。ただ、そもそも世俗的な意味において「役に立つ」ことが、宗教の最終目的ではない。とりわけ1995年のオウム事件以後、宗教の側から自らの有用性を説き、社会貢献の度合いを競い合い、「こんなに役に立ちますよ」と喧伝する動きには違和感を禁じ得ない。ともすると、伝統的な宗教教団が「オウムや統一協会などの新興宗教と違って社会のお役に立ちますから、バッシングせずに公益性も認めて、温かく見守ってください」と媚びる傾向になってはいないか。

 こうした動きに拍車をかけたのが、2008年に施行され、多くのキリスト教系諸団体をも巻き込んだ公益法人改革である。「キリスト新聞」の報道によると、新法人への移行を迫られた関係団体からは

「『民による公益の増進をめざして』といううたい文句とは異なり、行政による指導、相談、助言、誘導が厳しく、当方の自由裁量が制限された」「『公益』についても認定当局の判断に左右されないよう法人側の主張を押し出していく必要がある」

など、その成果に疑問を抱く声も上がった(2012年1月28日付)。

 社会的存在として相応の責任は当然果たすべきだが、俗社会と一切摩擦を生じさせないような宗教に存在意義はあるのか。バッシングの矛先が、いつ自分たちに向けられるかもしれないという覚悟はあるのか。その意味で、宗教は世間的な価値規範においては「役に立たない」側面や、「脱社会的」な側面があることを忘れてはならない。

 宗教に限らず、芸術、文化なども、時代の閉塞状況において真っ先に切り捨てられる分野。しかし、目に見えず、数で計れず、結果もすぐには出ないような部分の価値をも認められる社会であってほしいと切に願う。「結果を出すこと」「役に立つ」ことを目的としないものが、実は大局的に見れば(より本質的に)、期待をはるかに上回る大きな成果を上げるということは、十分にあり得る。

 そして、宗教のあるべき「応答」とは、「社会貢献」に限られるものではない。「宗教コワい」という世間の声に対して、私たちがすべき反応は「コワくありません」という弁明や「コワがっているうちはわからない」という拒絶ではない。学校の先生や職場の上司、家族や友人では提起できないかもしれない第三の視点や新しい「物差し」、価値観を示してみせることである。

 本書で散々繰り返してきた「あなたにとっての宗教とは?」という問いと、それに対する十人十色の答えは、そうした宗教者の立つべきポジションを改めて教えてくれる。信仰の有無を越えて、キリスト教に関心を抱く人々と共有できるものがきっとある。

 池澤夏樹さん(p.47)や阿刀田高さん(p.61)のように信仰者と非信仰者の橋渡しを買って出る人がいる。里中満智子さん(p.117)のようにクリスチャンと同じかそれ以上の熱量で聖書の物語を愛する人もいる。これらの声に耳を傾けるとき、聖書を信者だけの専有物にしてはならないということに初めて思い至る。

 キリスト教の関係者にとっては耳の痛い指摘も、心温まる慰めの言葉も、力強い叱咤激励も、これからの「発信」や「応答」にとって大事なヒントとなるに違いない。そのヒントを拾い集めて発信することが、私にとっての「宗教改革」であり、「バージョン2.0」へのスタート地点だ。

「ハタから」見える新たな地平

 20代前半で結婚した私の妻は、いわゆる「ノンクリスチャン」である。キリスト教徒の中には、「結婚するなら絶対に同じ信仰を共有できる相手と」という考えも根強くあるが、私はハナからそれを条件とはしていなかった。たまたま出会って、たまたま好き同士だった相手がたまたまクリスチャンではなかったというだけのこと(もちろん、この「たまたま」を信者は「神のご計画」「御旨」と呼んだりするのだが……)。出会った当初はそれほど意識しなかったが、今になってありがたいと思うのは、常に身近に「ハタから」の視点を意識せざるを得ないことだ。もともと「ガチクリ」(熱心なクリスチャン)の両親のもとに生まれ、「クリスチャンホーム」で育った私にとって当たり前のことが、世間的には当たり前ではないことのほうが多く、それらは他人から指摘してもらわなければ気付けないことばかりなのである。

 これは何も宗教に限ったことではなく、長く「中」にいた人にとっては、何が常識で、何が常識でないかは判別しにくい。周囲からどのように見られているか、自らを客観視することで「外」に向けてどのようなアピールやアプローチが必要かを考えるということは、あらゆる分野のプレゼンテーションにおいて基礎となるはずである。


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