宗教を超えてつながる世界へ 「試着可能」な時代に求められる姿勢とは(対談 松本紹圭さん)
「ザ・フナイ」というスピ系月刊誌で「未来の住職塾」の松本紹圭さんが連載している対談にお招きいただき、「Post-Religion」をめぐって楽しい宗教間対話ができました。
松本紹圭 まつもと・しょうけい 1979年北海道生まれ。東京大学哲学科卒。武蔵野大学客員准教授。世界経済フォーラム(ダボス会議)Young Global Leader, Global Future Council Member。インド商科大学院にてMBA取得。お寺の経営塾「未来の住職塾」を開講し、9年間で700名を超える卒業生を輩出。著書『お坊さんが教えるこころが整う掃除の本』は世界17か国語で翻訳出版。noteマガジン「松本紹圭の方丈庵」発行。Podcast「Temple Morning Radio」は平日毎朝6時に配信中。
ちなみに、個人的には10年前に出たこちらの本が松本さんを知ったきっかけ。とあるイベントで念願の対面が果たせたのを機に、今回はサシで対談という貴重な機会をいただき光栄でした。
以下、掲載された対談の一部を抜粋してご紹介。
コロナ禍は「自分で距離感を調節できる自由さ」を宗教に取り入れるチャンス
松本 松谷さんにとって、今を生きる人たちに届けるキリスト教の大事なところは、どのようなところですか。
松谷 キリスト教の専売ではないかもしれませんが、競争や比較、同調圧力といった、現代の社会経済構造が含む抑圧的な価値観に押し込められて、こが、競争や比較、同調圧力といった、現代の社会経れだけ生きづらく、息苦しい世界がある一方で、そうしたところから離れて、違ったものの見方で生きている人たちがいるということ。社会的には異端児のように見えるかもしれないですが、例えば、本気で人助けに生きているような人たちがいるということ、その姿を、どう人々に見せていけるか、ということだろうと思いますね。そこに、宗教的な勧誘や「こうすれば救われる」といった視点が入ると、形骸化してしまう気がします。
松本 本当にそうですね。こんな生き方をしている人がいるんだ、と思わせるような、その人が大切にしているもののなかに、信仰があったということ。異なるものの見方や生き方があるということを人々に伝えるとき、うちの宗教はこうですよ、といった宗教間の比較も不要だと思います。松谷さんがおっしゃった、「こんな生き方をしている人がいる、そこにはこんな教えがあった、それを伝えたい」ということは、とてもシンプルで、私も本当に共感します。
松谷 人それぞれ相性がありますから、選択肢の中から合うものを自由に選択してもらえればいいのだろうと個人的には思っています。私の場合はたまたま、キリスト教であったということに過ぎません。
松本 とはいえ、松谷さんは、たまたまでありながら、絶対にキリスト教であったのですよね。私もたまたま、縁によって仏教徒であり念仏の人ではありますが、それ以外にはあり得ずに、今、ここにこうしています。今となっては、私は宗教というものは自分に「合う/合わない」ということでもないのかなという気もしています。「着ていたら馴じむ」ということがあるように、「合わないけれど縁がある」ということもありますし、その縁の中にいるうちに、自分が変わっていくということもある。さらには、一つの縁が絶対ということもなく、複数の縁を渡っていくこともある。
「着る」という例えで言えば、何の宗教を着てもどこか違和感を感じながら、あちこちの宗教を渡り歩いて試着を繰り返しているような人も見かけます。それはそれでいいとしても、あまり焦らずに、しばらく着てみてほしいという気持ちもありますね。違和感から生まれる気付きもまたありますから。
松谷 「試着」に後ろめたさを感じていらっしゃる方もお見受けします。中には確かに、買わずには出られない、返品不可の(カルト的な)場があるのも事実です。でも本来は、あちらこちらを試着してみていいし、買わずにお店を出てもいい。一度店に足を踏み入れたら絶対に買わないといけない、なんてことは決してないんです。教会や礼拝についても神様を信じていないのですが、中に入ってみていいものですか?」という質問をよくいただきます。コミットしたメンバーだけが参加できるものと誤解されていることが多いのですね。
(中略)
松谷 最近、一部のアパレルショップでは、店員に声をかけてほしいかほしくないかを、客が自ら意思表示できるシステムが導入されたという話を聞きました。私自身はあまり声をかけられたくないタイプで、干渉されずにすっと入ってすっと出ていけるのを望みますが、中には、声をかけてほしいと思っている人、さらにはコミットしたいと思っている人もいる。教会でも、全く同じことが起きています。教会においてもそれを表示できる仕組みがあるといいなと思います。
オンライン化の流れの中で、オンライン上ではそれが実現できていて、「様子を見てみたい」という人たちにとって環境はとても良くなりました。
松本 確かにオンラインは、「自分で距離感を調節できる」環境がありますね。画像や音声のオンオフや、入退出も自由です。
松谷 キリスト教の聖性や学的な観点から、はたしてそれが礼拝に当たるかどうかはいろいろと議論はあるかと思いますが、ユーザーにとっては、数あ
る選択肢の中から、行きたいときに行き、聞きたいものを聞き、出たいときに出られるという関わり方ができるようになって、関心事へのアクセスのハードルは大幅に下がりました。これはコロナの恩恵でもありますね。
松本 オンラインで試着をしてから、より明確な「行ってみよう」という意思をもってリアルの場に足を運べるようにもなったわけですね。
松谷 post-religionにとってはまたとないチャンスがやってきていると思います。教会においては、現在のオンライン化はあくまでも緊急時の二次的な
対応に過ぎず、礼拝として認めていない眼差しもあるのが現実です。コロナが収束したら元に戻ろうとする動きもすでにありますが、まったく戻るということだけは避けたいと、個人的には思っています。
松本 みんながみんな戻るわけではないでしょうから、一つの礼拝のかたちとして新しきを受け入れていく試着可能な教会が、これからの時代に縁を増やしていく、ということもあるのではないでしょうか。キリスト新聞などでそうした教会の姿を発信していくことも、人々に伝わるよう醸し出していく一つの方法かもしれませんね。
松谷 今まで必要だと言われていながら、重い腰が上がらずに変化できずにいた教会も、コロナを契機に一気に動きはじめました。たとえ消極的な理由であったとしても、あらゆる変化を前向きな動きのきっかけとしてこれからも捉えていきたいと思います。
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