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小説|赤いバトン[改訂版]|第8話 結婚三十五周年(語り:コウサク)

先月、ボクたち夫婦は、めでたく結婚三十五周年を迎えた。語呂ごろあわせで[珊瑚(さんご)婚式]と言うらしく、ボクたちは、よそ行きの服で着飾きかざって、夫婦水入みずいらずのディナーを楽しんだ。このディナーは、すでにとついでいる一人娘からのプレゼントで、名古屋駅に直結しているホテルの、最上階ラウンジのコースディナーを用意してくれた。しかも娘はわざわざ車での送迎までしてくれた。

帰り道の車内、娘が妻に「地上二百十メートルからの夜景はどうだった?」とたずねると、
「光の宝石だった」と妻は答え、つづいて、
「わたしはまるで、平成のマリア・テレジアですことよ」とふざけた。
「だったらわたしは、平成のマリー・アントワネットですわね」と娘。
「お父さまは、どなたかしら?」と娘。
おっと、今度はボクの番。
マリア・テレジアの夫の名前? まったく知らない。おそらく車内の三人全員、正解を知らない。ナンチャラ一世とか、二世とか、三世とか、そんな感じなのだろう。仕方ない。ボクの知識にあるとぼしい世界史からひねり出し、
「ごちゃごちゃ言ってないで、ハプスブルク家に送ってくれたまえ」と娘に申した。
すると妻は「コウサク先生、上手に返したね ♡」とめてくれた。
ハプスブルク家に到着し、
ボクは娘に「最高のプレゼントだった。ありがとう」と感謝した。
「お父さんもお母さんもずっと健康で、仲良くね ♡」と娘。
「本当にありがとうね ♡」と妻。
「気をつけて帰りゃあね。あと、国王ルイ十六世にもよろしく言っといてね」
「はーい。じゃあね。バイバーイ」と娘の車は走っていった。

妻はボクのことを[コウサク先生]と呼ぶ。ボクは彼女を[クミコ先生]と呼んでいる。結婚する前からお互いをずっとそう呼び続け、彼女が教師をめたあとも、結婚三十五年が経った今でも、クミコ先生のままである。
コースディナーを楽しんでいる時、結婚生活三十五年を振り返って、あの時はああだった、こうだったと、当時を懐かしんだ。結婚前の交際期間、同僚どうりょうだった時代のことも話題に上がった。ボクたちはその頃、同じ中学校に勤務しており、ボクは美術の正規せいき教員、クミコ先生は国語科教員で、産休育休代替だいたい教員(サンキュー先生)だった。
クミコ先生は、最初で最後の担任クラス2‐Dのことを思い出しながら、
「あの子たちには、ほんと感謝している」と微笑んだ。
「もちろんコウサク先生にも感謝してるよ」と補足もしてくれた。
2‐Dのことは、ボクもよくおぼえている。学校の中でも、一、二を争う評判の悪いクラスだった。どの教科も定刻ていこくに始められない。いざ始まっても私語しごがやまない。ほぼ毎授業、騒ぎっぱなし。あきらめて職員室に戻ってくる先生もいた。そんな授業崩壊ほうかいクラスの担任が、クミコ先生だった。まだ二十代なかば、副担任の経験しかない臨時りんじ代替だいたい教員。クミコ先生はずいぶん悩んでいた。ボクもいろいろ相談を受けていた。

夏休みを間近まぢかひかえた七月のある日、放課後の職員室でクミコ先生はいつものように他の先生にめられ、「すいません。すいません」とびていた。ボクもその様子を心配しながらうかがっていた。胸中きょうちゅうで(クミコ先生、ファイト!)とエールを送っていた。
職員室には、複数人の生徒たちもいた。授業で分からなかったところをたずねに来ている生徒や、部活の顧問こもんの元に来ている生徒たち。そのなかに、2‐Dの女子生徒もいたようだ。

翌朝、校長室が騒然そうぜんとなった。
2‐Dの生徒四十人全員が押しかけてきたのである。
職員室と校長室はドア一枚でつながっており、各学年の学年主任の先生がそのドアから急いで校長室に入っていった。他の教職員は、職員室から耳をそばだてていた。
リーダー格の男子生徒の声が聞こえた。
「クミコ先生がめさせられるって、どういうことだ!」
他の生徒たちも爆発した。
「一学期でめさせられるって本当か!」
「クミコ先生は何も悪くないだろ!」
めさせないで!」と声を張る女子生徒もいた。
「説明しろ! 説明しろ! 説明しろ!」の大合唱になった。
「校長! どういうことだ! 説明しろ!」とリーダー格の男子生徒。

フリーズしたままの職員室。
クミコ先生がボクを見た。ボクは(行け!)とうなずいた。
クミコ先生は(うん!)とうなずき、校長室に飛び込んでいった。

「あの時は、ほんとビックリした」とクミコ先生。
コースディナーのラスト、食後のコーヒーにフレッシュをそそぎながら、
「とんだ勘違かんちがいだったから、校長先生もキョトンとしていた」
「学年主任の先生方も首をかしげてた」
クミコ先生は嬉しそうに当時を思い出している。
その様子を確認しながら、ボクもコーヒーにフレッシュを入れた。
「前の日、職員室にいた2‐Dの女子生徒が発端ほったんだったね」とボク。
「そう。しかられていたわたしを見て、めさせられるんじゃないかって」
飛躍ひやくしてたね。どういう訳だか、辞職じしょくだからね」
「うん。でもその時バレちゃった。コウサク先生との結婚のこと」

校長先生と学年主任の先生たち、2‐Dの生徒たちの間、進み出ていったクミコ先生は、生徒たちに向かってこう言った。
「わたしは一学期でめない! 二学期もあなたたちの担任だわ!」
2‐Dの生徒たちは静かになった。
「でも二学期で任期は終わり! そして来年わたしは結婚する!」
2‐Dの生徒たちはざわついた。
「みんな静かに! この話のつづきは、朝のホームルームでします!」
そして、クミコ先生の号令ごうれいのもと、2‐Dの生徒四十人が「お騒がせして申し訳ありませんでした!」とびた。職員室にもやって来て、ボクたち教職員にも、「お騒がせして申し訳ありませんでした!」とびて、クミコ先生とともに教室に帰っていった。

ホテルの最上階ラウンジ。
ボクたち二人がちょうどコーヒーを飲み終えた時、グッドタイミングでクミコ先生のスマホがブルルと震えた。
「迎えが来たね」とボク。
クミコ先生はスマホに目をやり、娘からのメッセージを確認。
「もうすぐ下に着くって」と教えてくれた。

珊瑚婚式さんごこんしきをお祝いした翌日から、クミコ先生とボクは、新元号の案を考え始めた。毎夜、毎夜、二人の案を持ち寄りつつ、過去の元号と見比べながら、最終的に新元号を、和合(わごう)と予想した。四月一日を迎えると、見事に予想は外れた。新元号として発表されたのは、令和(れいわ)だった。そしてまもなく新学期が始まって、勤務先の小学校の教職員の間では、おおむね令和は好評だった。新元号の話題もすぐに落ち着き、新学期のスタートも落ち着きはじめた頃、娘とほぼ同世代の女性教諭から廊下で呼び止められ、質問をされた。

「先生。おたずねしたいことがありまして」
「はい。どうされましたか?」
「番号がついている赤いバトンについて、何かご存知ぞんじですか?」
「あ、それと、ありがとうの手紙もついているはずなんです」
「ありがとうの手紙に、番号、赤いバトン?」
すぐに分かった。すぐに思い出した。
「はい。その話なら、詳しく知っていますよ」とボクは答えた。
「市内の中学校での出来事ですが、……赤いバトンですか?」
「はい。赤です」と女性教諭。
ボクは「半分、青いですよ」と言って、
約三十五年前の昭和五十八年、二学期終業日、
クミコ先生が2‐Dの生徒四十人に渡したバトンのことを話した。
彼女はとても驚いていた。
その女性教諭は、ノリコ先生というのだが、彼女は、自分が大学生の時、ボランティアでたまたま訪れた児童館でのエピソードを話してくれた。
ボクもその話を聞いて、とても驚いた。

~ 第9話 一学期(語り:クミコ)に、つづく ~


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