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お察しできず、申し訳ありません。
宿猫ビリー。
なぜこんな表情を?
お腹が空いて、ごはんを待っているのです。
写真の全貌がこちら。
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まだ日も上がらぬ早朝、ビリーはそっと皿の前でご飯が出されるのを待っていました。
私はビリーの生活習慣をよく知らなかったので、慌てて傍にあったカリカリを一握りお皿の上に乗せました。
すると……
ビリーは一拍置いて、ストンと皿の前から去り
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少し離れたところで佇んでいました。
カリカリな気分ではないようです。
無言でテーブルから降りる姿、お見せしたかったです。
世界一かわいい感じの悪さでした。
私は急いで部屋に戻り、いつもビリーにあげている高級ごはんを取ってきました。
ビリーは「そうそう、これこれ」とばかりに寄ってきます。
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賢いビリーはきっと、macariは高級ごはんをくれる奴と学習したのでしょう。
カリカリを出した私に「無粋な奴め」と無言で抗議していたのかもしれません。
宿猫とのコミュニケーションから世界に思いを馳せる
日本人は「察するコミュニケーション」だと言われています。
言葉にせずともわかるでしょう?
皆まで言うな
はっきりと「yes」「no」と言わないことが美徳とされています。
これぞ「察するコミュニケーション」。
噂によると、京都の人が得意としているようです。
同じアジア圏だと、ベトナム人も「察する」系なのだそうです。
対して「全てを明確に言うコミュニケーション」。
代表的なのが英語を使う人々です。
私は察するのが下手なようです。
電車の表示を読んでいると、日本語だと「どっちなの?」と思うことがあります。
いわゆる「ハッキリとは書かないんだけどさ……」という類いの言い回しが苦手です。
そんな時は英語表記を読むことにしています。
感覚として、日本語は逃げ場がありますが、英語には無い感じ。
日本語を読むと浮上する「どっちなの?」という曖昧さを英語表記は解決してくれます。
さすが万国共通語だなと思います。
例えば
「昨日、バッグひったくられてさ」。
日本では問題なく会話が成立します。
私なら話している本人がひったくりに遭った、と理解します。
英語で話す場合、
「私は昨日、私のバッグをひったくられました」。
と表現します。
必ず主語と物、それぞれに説明を加えるのです。
だれが
だれの
なにを
どうした
こってりした表現に感じますが、察しない文化においては当然の事だと教えてもらいました。
なぜ、宿猫ビリーから世界へ思いを馳せたのか……
私がうまくビリーのことを理解できなかったからです。
自分の経験を通して、英語圏ではどんなコミュニケーションを動物や言葉を話さない赤ちゃんとしているのかな、と疑問に思いました。
言葉を話さない動物や赤ちゃんの気持ちをどうやって理解しているのだろう?
外面がいい人の言う言葉を、果たして本気なのかどうやって判断しているのだろう?
察する国で生まれ育ち、真意を測れず苦労している民としては「そこが知りたい!」と思ったのです。
知っている方、教えてプリーズ!